新居格に答へて素盞之尊の教理を論じた男

 新居格の『区長日記』(学芸通信社、昭和30年4月)に、東京都杉並区長だった新居が氏神の祭礼に行くのを断った話がある。新居は22年4月に就任し、その秋のこと。タイトルは「民主主義とはどろんこの里芋を桶に入れてごりごりやること」。4ページほどの短いもの。荻窪のある地区の人たちが数人、区長室にやって来て、「区長、氏神の祭礼にやって来てくれないかね」と頼んだ。新居が「君たちの氏神のご神体は何だね」と聞くと、「すさのおの尊ですよ」といふ。

 

 「そうかね。こんな神話の神様のお祭りなんかよせばいいのに」

 すると、その中の一人が代弁して、

「でも宗教ですよ」

「そうか、宗教か、わたしは宗教としてすさのおの尊の教理教説を知らないのだが、一つ教えてくれんかね」

 と訊いた。意地の悪い質問であることは、わたしも知っての上のことだ。すると、彼はそれに答えす(或は答えられなかったのかもしれないが)話頭を転じて「これは信仰だ。信仰はあった方がないよりいい」と、向っ腹を立てたかのようにいった。                            

 

 

  彼らは対抗策として、10月1日の国勢調査に協力しないと怒って引き揚げた。新居は「民主主義とはどろんこの里芋を桶のなかに入れてひっ掻き廻しているようなものだよ。ああやって揉んでいるうちに分って来るから、せいぜい揉むに限る」と自信をみせてゐる。

 ご神体といふのをご祭神に置き換へればより正確だらうが、住民はご祭神をしっかりと把握してゐる。さらに、祭礼のことを宗教だと答へてゐる。年中行事だとか儀式だとかではなく宗教だといふのは珍しいことではないか。

 これと同じ出来事を記したものに、『民衆大学』(大衆法律文化社2巻7号、昭和22年12月発行)の新居格「民衆の味方か敵か」がある。『日記』と異なるところがある。こちらでは団体でなく男が一人で来たやうに書いてある。

 

「あなたに伺うが素盞之尊の教理はどんなことでしよう、そこに宗教原理があるとすれば」

 すると、彼はとに角、それを通じて絶対の神を見るのだ。基督を通じて神を見るのと同じだといつた。

 

 「ご神体」がすさのおの尊であることは同じだが、そのあとの応答が違ふ。『日記』では「彼はそれに答えず(或は答えられなかったのかもしれないが)話頭を転じて」「これは信仰だ。信仰はあった方がないよりいい」と言ってゐる。しかし『民衆大学』誌上では話題を転じてはゐない。「それ(=すさのおの尊?)を通じて絶対の神を見る」のだといふ。その点で、すさのおはキリストのやうなものだと意見してゐる。新居は「因襲的な祭礼」「旧態依然」と、時代遅れのもののやうにいひ、代はりに「民主的な人間思想に即する人間の祝祭」「無邪気な運動会でもすればいゝ」と論じてゐる。

 氏神のすさのおの尊を説明するのに「絶対の神を見る」とか、キリストを持ち出したりするといふのは、なかなかできることではない。神話に出てくる神様だとか、昔から祀ってゐるのだとかといふのが普通ではないか。

 新居は、老婆が地蔵を拝むのも迷信だと片付け、男の回答にも「教説がない」と決めつけてゐるが、この男の宗教論は因襲的な無考へのものではないことがうかがへる。少なくとも『日記』にあるやうな、ごりごりやられるどろんこの里芋には収まりきらないものがありさうだ。

 ただ留意することは、新居はこの問答の前後に、町内などの祭礼を取り上げた9月25日付の日経新聞の社説を読んでゐる。題は「ヤミ勢力を一掃せよ」。「世にいわゆる暴力団とか、顔役とか、地廻りなどとも呼ばれ(略)祭礼などを種に金銭や、物をゆすり…」と、祭礼に出没するヤミ勢力を非難したもの。新居は、国勢調査への非協調に対抗する闘志を燃やしてゐる。「わたしはそうした迷蒙にたいして抗争する意思がある」。