横松宗「これらの問題はもっと究明する必要があろう」

 横松宗『一九四五年―上海』は大分の『邪馬台』70・71号の抜刷。昭和59年発行。
 横松は大正2年生まれ、八幡大学学長。魯迅福沢諭吉の研究者。戦時中は国策会社の中支那振興株式会社勤務。この冊子はその頃の上海や日本の様子を描く。産業課に属し、課長の滝野氏の夫人は島田叡沖縄県知事の妹。
 日本に留学中、横松は大東亜省で「きわめて皇道主義的な教育」を受けた。

受講した教授の多くは東大の教授等であったが、大部分は国粋主義か皇道主義者であり、憲法の講義なども、上杉慎吉の学説よりもひどいものであった。平泉澄教授の話など神がかり的なものをはじめ、難波田春夫教授の経済学など、こじつけのようなものが多く、正直納得しかねた。

 大川周明に反論して激怒させるなど、「皇道主義」に感化されなかった。それでも論文をまとめたが、「内容については、今は完全に忘れてしまっている」といふ。
 「ある意味で影山氏を崇拝していた」友人と塾を訪問。友人は「本ものの日本精神の持主ではなかろうか」と言ってゐるが、横松は訪問時の「話の内容は、今日ほとんど忘れてしまった」と記す。
 「皇道主義者」の行動を全否定してゐたわけではない。

彼の門下生たちの集団自決の報道を読んで一種の言い知れぬ哀感に満たされたことも事実である。それは思想的な共鳴とは全くちがう日本民族のもう一つの宿命的な情感のようなものであったかも知れない。

 講義では批判的だったが横松だが、情感では哀感を覚えてゐる。
 一方嫌悪の情を抱いたのは児玉機関の児玉誉士夫で、「莫大な金塊やダイヤモンドを積載し、特別機を仕立てて日本に帰った」といふ話を書き留めてゐる。引き揚げの荷物制限で持ち帰れなかった3000冊の蔵書にも触れてゐて、「書物を持帰ろうとして帰国を延期された」といふ噂も耳にしたことも児玉批判の理由の一つだらう。
 横松は右翼について疑問を抱く。

一般的にいって、いわゆる右翼なるものの中には、こうした極端な金権体質をもつものがあるが、果して皇道精神は手段で、金を儲けて権力を握ることが目的なのか。金儲けと権力を握ることが手段で、天皇制を護持することが目的なのか。それとも皇道精神の右翼と暴力金権派の右翼とは根本において一つなのか。これらの問題はもっと究明する必要があろう。