小坂藤若「鎌倉たるものちょっと浮ばれないだろう」

 小坂藤若『随筆 あとの鴉』は昭和45年11月刊の自費出版
 年譜によれば小坂は明治28年1月、鎌倉生まれ。本務の八雲神社のほか、11社を兼務する神職。神奈川県神社庁副庁長、のちに顧問。鎌倉市助役も務めた。
 書名に随筆とあるが、全202頁のうち随筆は約30頁。祝詞が10頁。昭和8年、徳富蘆花の小説「不如帰」の碑が逗子にできたときの祝詞もある。
 あとの150頁が日誌で、実際は日誌が大部分を占める。内容は皇典講究所での学生生活、軍隊への入営・除隊、結婚、鎌倉町役場での勤務、大正期の鎌倉の様子など多岐にわたり、分量も多く興味が尽きない。
 始まりは大正3年8月31日。当時の皇典講究所は9月始まりなので、入学のため上京した。ひと月を13円でやり繰りする計画を立て、たまに飯田橋から神保町や今川小路に行き古書を買ってゐる。
 大正4年12月に入隊。20日が軍旗祭で昼食は特別メニュー。

小豆飯、豆きんとん、蒲鉾、焼鮒三串、鰻蒲焼二串、大福餅二コ、餡パン五コ、密柑一コ、酒少々という豪勢なもの、酒は古兵に呑んでもらった。

 と詳しく書いてある。軍隊で鰻。
 大正8年5月26日の日誌には自殺者続出の話。

年若い未婚の女、鎌倉を始めて見る者等が多いそうだ。いっそ死ぬなら景色のいい鎌倉でと、とんだところで自殺者の名所になろうとは、鎌倉たるものちょっと浮ばれないだろう。

 のちの「不如帰」の碑除幕式の祝詞には「観光客(たづねびと)が上にも禍神の禍事なく、町のありかた弥栄えに栄えしめ給え」とある。
 大正10年9月29日は大磯で起こった、朝日平吾による安田善次郎刺殺事件について。「斯くの如き行為は(略)模倣的類似の犯行者を出した例が多い」などといふ新聞記事を引用。

第二の朝日を出し、安田翁を出すようなことはないであろうか。
 物騒な世の中になったものである。

 と慨嘆してゐる。
 小坂は句作をよくし、蓑虫やコホロギ、ミミズなど、他人の目には入りにくい小さいものにも目を向ける。病人や死人など不遇な人のことも多く記す。大正8年6月1日は鎌倉にゐた乞食、通称「外套」のこと。

若い時は学問が好きで日夜読書に耽っていたが、どうしたはずみか発作的に狂った。その後狂態だけは除かれたが、脳は尋常に回復せず、遂に今日のような落魄放浪する身となってしまった。(略)
 私の家へもよく来た。台所の窓際に立って「何かないかねえ」という彼の姿を見て、可哀想だなあと思うのだった。

 手元の物には「鎌倉タイムス」昭和46年1月25日号、第689号が挟み込まれてゐた。毎月3回5日発行とある。題字は里見紝。ペラ1枚で全2頁。2頁目は下半分以上が広告で、その上に『あとの鴉』と著者の紹介。500部の限定出版とある。「著者のこまやかな、人情味あふれる人柄がしのばれる」。「『昭和鎌倉史』をまとめることを期待したい」。