磯部浅一の「獄中手記」を隠してゐた吉田彦太郎

 『憲兵秘録』は昭和31年4月15日初版、鱒書房発行。手元のものは4月20日の再版。明治32年生まれ、東大法学部卒の元憲兵、角田忠七郎の執筆。出版時は弁護士、全国憲友会委員長。
 明治・大正篇10件、昭和篇11件、外地篇9件と、憲兵にまつはる計30の出来事が要領よくまとめられてゐる。各項目の最後に、著者と各事件との関はりをコメントしてゐて、短いものでも貴重な証言となってゐる。
 「李鴻章の遭難」「浜口首相の遭難」「鶴見騒擾事件」もよいが注目は「不穏文書の掃滅」の項。これは二・二六事件磯部浅一の「獄中手記」が巷に配布されてゐたことを知った憲兵が、それら不穏文書を押収、関係者を摘発したといふ事件。岩田富美夫の子分、岩崎次郎が磯部と親しかったといふ。検挙されたのは三浦義一、北署吉、吉田彦太郎、磯部の妻登美子、大森有声ら。不穏文書臨時取締法適用第一号の事件で、憲兵史に特筆されるべきものとされてゐるが、初適用が右翼だったといふのはあまり論じられない。事件の概要は大谷敬二郎『昭和憲兵史』などにもあるが、本書には捜査の詳細などがわかるやうに描かれてゐる。
 文書が発見されたのは吉田彦太郎の家。吉田は児玉誉士夫野依秀市と親しかった人物。のち帝都日日新聞社長。

物置の中には古い椅子や壊れた机が二つ三つ、雑然と積み重ねられてあったが、更によく見ると、積まれた一方の椅子にはクモの巣がかかっているが、片方の机にかかったクモの巣は切れていた。

 その引出から「獄中手記」や印刷物など七、八〇〇部が発見された。 獄中手記は「弁駁書」と題され、一部が引用されてゐる。

 愛国団体ノ機関紙ニ対シテハ、発行前ヨリ記事差止或は発禁等の処分ヲナスニ拘ハラズ、一方相当不穏ナル記事ヲ掲載スル自由主義社会主義等ノ機関紙ニ対テハ、何等処分ヲナサザルナリ…

 磯部は、当局はいはゆる右翼に対して発禁など厳しく処分するが、左翼には寛大だと憤ってゐる。へえ面白いと思って、去年出た中公の『獄中手記』を見た。小さな「磯部浅一全集」とされるもので「弁駁書」は載ってゐるが、引用されてゐるやうな記述は見当たらなかった。他の二・ニ六事件関係書もみたが、ない。
 これは一体どういふことだらう、「弁駁書」が他にもあったのか、それとも誰かが磯部の名を騙った怪文書だったのだらうか。著者の角田が他の文書と間違へたのか。



・月末に三浦義一『悲天』復刊。続編も一緒にするといふことは手書きのを活字に起こすのだらうか。保田與重郎の解題は削らないでほしい。