足利尊氏の墓を毎朝起こした吉田妙

『塔影』は塔影詩社発行。昭和61年6月発行の213号は最終号で島本久恵追悼号。「島本久恵略譜」も収める。
島本は明治26年2月生まれ。夫の河井酔茗と女性時代社を興し『女性時代』を発行。恩地孝四郎の表紙が印象的だったと回顧されてゐる。戦後の昭和23年1月、男性にも門戸を開き塔影詩社とし、『塔影』を発行した。60年6月没。
追悼号には島本の「尊氏の墓」が載ってゐる。昭和10年7月、鎌倉に行った時に執筆したもので、掲載された形跡はないといふ。この中で、当時から17、8年前に会った女流棋士、吉田妙のことを思ひ出してゐる。以下は吉田の話。
吉田は尊氏の墓がある廃寺に起居してゐた。

すると尊氏の墓が毎日倒れる、これはもとから聞いてゐたことなので、毎朝行って起すが、毎朝倒れてゐる。長い間に倒れては欠けて石の安定もわるいのであろうが、街道を通りかゝりの鎌倉の遊覧者が入って来て倒して行くのでもあろう。けれどもまたそれだけではないような気がする。あまりに倒れるのだ。自然に立ってゐられないのだといふ気がする。

尊氏の墓が毎朝倒れるのは重大な意味があるやうに書かれてゐるが、大正の半ばでも嫌はれてゐて、実際は建ってゐるのを見た人が倒してゐたのではなからうか。
吉田生緒「母に代りて」は大正期の女性雑誌の編集ぶりが描かれる。父の吉田常夏は酔茗から『女子文壇』を引き継ぎ、誌名を『処女』に変へてしまった。『女子文壇』の末期は営利主義で暴露記事が多くなってゐたので、『処女』は純文学的に方針転換した。
母の吉田静代は『女子文壇』の記者として入社したが実は人手は足りてゐて、同じ社の通俗雑誌、『うきよ』の編集が主だったといふ。口絵のモデルや探訪記事の仕事をしてゐた。
『うきよ』は売れ行きが良かったとあるが、芸妓の写真や探訪記事が多かったと思ふ。