会津藩の隠密探偵だった大庭恭平

 『上田郷友会月報』の大正4年1月号は通巻339号で三十週年紀年号。編集担当として小林雄吾の署名がある。
 後半はすべて小林が書いた、第6代上田藩主松平忠固公の伝記。開明派の忠固は攘夷派の徳川斉昭と対立。斉昭のことは「其の為人や偏にして屈、頑にして固、猜疑の念深く、愛憎の情深くして、雅量は甚だ乏しく…」と描く。
 ほかの記事の千岳生「斬像事件の両壮士」は、幕末に平田派国学者らが起こした足利三代木像梟首事件の逸話。大庭恭平は会津藩士で「磊落粗放」「常に鯨飲痛罵」、堂々とした偉丈夫だった。

会津侯は彼を抜擢して隠密探偵と為し、薩長等の浪士と交はらしめ、其挙動を探らしめ、併せて薩長諸藩の消息を窺ふの便に供せり。

 薩長の浪士と交はり得た情報が京都守護職松平容保に伝へられてゐた。ところがいつしか、大庭の挙動を怪しむ者が出始めた。そこで斬像のことを提議し、秘密を晦ませたのだといふ。大庭は事件後、上田藩に預けられた。
 これが本当か分からないが、過激派が木像を斬って河原に捨てた奇妙な事件といふ印象が少し変はってくる。

 もう一人触れられてゐるのは、やはり上田に幽閉された師岡節斎。大国隆正の高弟。「等持院の事を詠める歌」の長歌を載せる。反歌

 五百歳の昔我輩生れ出ては 
  かくしてましをその現身を

 もし自分が500年前に生まれてゐたら、木像ではなく本人を同じ目に遭はせてやったのに、といふ歌。「筆力何ぞ雄勁なる、壮士の面目句々の間に躍如たり」。