上海のブラック・ジャパニーズ、グプタ

 今年の12月はあまり寒くない。100年前はもっと寒かったらう。
 大正4(1915)年12月、頭山翁らにより、インド人志士のボースとグプタが新宿の中村屋に匿はれた。ボースは日本にカリーを伝へて中村屋ボースとなったが、中村屋側の証言ではグプタは日本の生活に馴染めず脱出。大川周明宅からアメリカ経由でメキシコに行ったことになってゐる。
 グプタはその後どうなったか。
 『歴史におきざりにされた インド独立の秘話‐大亜細亜主義の悲願に斃れた‐‐志士グプタの残照を追って』(草開省象、平成8年3月)は自費出版風の体裁の非売品。
 この書には、著者が会ったグプタの生涯が描かれてゐる。晩年の写真も年譜もある。
 これによれば、大正5年に渡米したグプタは翌年には再び来日。北海道でアイヌを装ひ佐藤ボビーと名乗った。頭山翁や内田良平の庇護を受け、黒龍会員の護衛と共に日本各地に行った。芝居見物も人種差別撤廃演説もし、鹿児島では西郷どんと慕はれた。嘉納治五郎から柔道を教はり、その甥の嘉納ピスケンからは、興行のことで一時トラブルになった。これはボクシングの嘉納健治だらう。他に暴漢に襲はれ重傷も負ってゐる。
 上海で大川とも会ってゐる。日本の敗戦を知ると、悲観して街頭で演説、共産党を攻撃した。

 インド独立の悲願が断たれたと思うと、居たたまれず酒を飲み、町に出て場所も相手もかまわず日本、中国、インド三国の団結と孫文が唱えた大アジア主義を道ゆく人たちに訴えた。(略)日本人の間では親日家として知られ、中国人からも親しまれていた彼のことを誰いうともなく?ブラック・ジャパニーズ?と呼ぶようになった。

 絣の着物を着てゐたともあり、これは上野の西郷像に倣ったのだらう。中国人は西郷だとは知らず、ただブラック・ジャパニーズと呼んだ。
 戦後生活に困り、中村屋やボースの長女を頼らうとしたが断られた。昭和40年に亡くなってゐる。
 グプタと著者との対話の箇所が臨場感があって面白い。ただ最後まで本名ではなくバブ・ボビーで通してゐる。
 グプタは来日前にイギリスで捕まったとき、病院で佯狂して脱出してゐる。中村屋からの脱出も予定の行動だと言ってゐる。グプタから武勇伝を聞いた大川が、東京裁判の時に思ひ出したのだらうかと想像させる。

 



表紙にはタゴールと記念写真に納まるグプタ(左から3人目)。左端がボース。