「駄目埋め」「遊軍」だった田中沢二

続き。田中沢二の父は田中智学。国柱会や国体学で知られる。その他いろいろな事業を手がけ、沢二は父の仕事を手伝ふやうになる。
 『日本改造の具体案』の後ろの略歴は、版を重ねるごとに経歴が詳しく書き換へられるやうになっていった。音楽やタバコ、着物の好みなど人柄がわかる。
 経歴を記したものには、別に『田中沢二の半生』(昭和60年3月、らんせん先生著書出版委員会)がある。11年11月の生誕50年のときに出版が計画されたが実現せず、その後も何度も中止となった。昭和30年の没後更に30年、やうやくこの年に刊行された。
 ここには沢二がどのやうに父の事業を手伝ったか、何を思ったかといふことが丁寧に描かれてゐる。
 日蓮主義を宣伝するための活版所で印刷を学び、門下が開いた絵葉書屋では番頭をしたり売り込みに行ったりした。ミルクホールでは給仕兼配達夫。父の発想で、牛乳につける日刊新聞「乳暦」を発行することになり、その編集もした。それから雑誌『妙宗』の編集や講演もするやうになる。仕事ぶりが詳しく書いてあって興味深い。表神保町で本屋もしてゐる。
 沢二ら兄弟は、そのやうな仕事を「駄目埋め」「遊軍」と称してゐた。小学校を1年で中退した沢二は、言はれた仕事に反発することなく、むしろ力を発揮できることに喜んでゐた。

いろいろと展開する父の仕事には、必らずそういふものが無ければならないわけなのだらうから、喜んで与へられた仕事にもつくし、また実際つかなければ仕事がはじめられないといったわけのものだったのだらう。

 大体私は、大ぜいの人の前で大きな声で話をするといふ事があまり好きでない。余りすきでないといふよりは殆どきらひだ。殆どといふよりは全く嫌ひだ。

子供らしい遊びなどいふものは、たゞの一度もといふ程したことはなかった。それに、七つの歳からは全然学校といふものへ行かなかったので、私には、友達といふものがなかった。そうして私の周囲の人といったら、すくなくても、七八つ年上の人ばかりだったから、話をするといっても、若い者同士の溌溂たる感じなどは出てきっこはない。

 二葉亭四迷の文章やフランス文学に親しんだり、著書の造本にも一家言あったりといふのも関心が伝はってきてよい。単なる自伝や回顧録でなく、心の動きが克明に描かれるのに目を見張る。書名は『自伝』や『わが半生』ではなく、『田中澤二の半生』。次の箇所を読んだ時など、私小説だと思って感嘆した。背中に、よう、といふ出来物ができたときのこと。

出来物の痛さなど、そう幾度も経験のできる事ではない。出来た時にその痛さをしみじみ味はっておけば何かの役にはたゝふ。若しも相手をやっつける場合、――建設をする人間には、時と場合によって、やっつけなければならない相手もある――どんなあんばいに痛めつけてやらうか、出来物のようにやらうか、盲腸炎のようにやらうか、或は脱臼が三十六時間はいらなくって、筋肉が収縮する、その堪えがたいだるい痛み――これはその後の経験だが――のように痛めつけてやらうかなど考へることは時として必要なことではなからうか。