川面凡児が夜外出できなかった理由

 月刊『大日本世界教』第22年第3、4号は『川面先生追慕録』として、昭和4年4月に発刊された。同年2月23日、川面凡児の帰幽を受けたもので、裏表紙に五十日祭のスタンプがある。葬祭の様子、小伝、諸家寄稿からなる。全170頁。
 4月7日の追慕会発起人として頭山翁、床次竹二郎、平沼騏一郎、馬場愿治の4人、賛同者として今泉定介、筧克彦、吉田茂、鵜沢総明、牧野元次郎、松宮春一郎、葦津耕次郎、綾川武治、北吉ら20人、当日の来会者として秋山定輔野間清治、神崎一作、牧口常三郎、星野輝興ら37人の名が挙がってゐる。
 松宮は、杉浦重剛と川面の交友を述べてゐる。杉浦が、今度は夜に来てほしいといふと、川面はそれはできないと言ふ。

実はお恥しい極みであるが、家貧にして何らの備へなく、蒲団も充分ないので、老いたる母は一人では眠れず、毎夜私が同衾して、私の体温で温めてやらねばならぬから、夜分は外出することが出来ないとのことであつた。

 布団も満足にないので、夜は母子二人体温で温まらなければ寝られない。だから夜外出できないといふ。これでは貧困を通り越して貧窮である。
 川面の経済状況の非常ぶりは他にも出てくる。明治41年のこととして

当時師の窮乏、真に言語に絶し、食ふに一物なく、買ふに半銭なく、左右の同人東秀生等と共に、止むなく絶食すること屡々にして、一週日に及びたることあり

 食ふものも金も無く、一週間絶食したこともあった。
 親族の手記もあり、そのなかに、弟として堀内新泉の名がある。堀内姓の親戚も何人も出てくる。これは立志小説を残した堀内のことなのだらうか。