山本有成「異端とは何の事ですか」

『我が父の面影』(昭和6年10月発行、山鹿旗之進編)は山本有成の生涯をまとめたもの。安政2(1855)年生まれで、昭和5(1930)年10月19日に亡くなった。
 父は津軽藩士の坂巻並衛。江戸に生まれて一旦弘前に行き東京に戻り、名古屋外国語学校、東京の医科大学で医院の開業免状を得て宮城医学校教諭に赴任。宮城にコレラが流行ったときは避病院の院長を務めた。
 アメリカに洋行後に仙台で外科医院を開業し、ローマ字ひろめ会仙台支部、基督教青年会、ボーイスカウトにも注力した。
 本書は各種の筆記や談話を集めたもので、洋行の後半部分が欠落してゐる。しかし幕末明治初めの風俗習慣、洋行の道中、ローマ字論、信仰のことなどどれも文章が洒脱で、面白く読んだ。
 まず誕生日がわからない。生まれてすぐ安政地震があって、放り出されて3日ほどのちに発見された。そのとき亡くなった母は「未だ曽て夢を見た事がない」といふので評判で、子よりも母の死が惜しまれた。
 兄の一人は山鹿素行の家に養子に行って榎本武揚を征伐した。
 6歳のときに邸の門が閉められ警護が厳重になったので事情を聞くと、井伊大老が殺されたといふ。この頃より、「あちこちに殺された人を見たなどいふ評判を段々聞くやうになつた」。
 弘前では勝手が違って苦労した。

 今日よりは七十余年前の事であれば、弘前の市民にして、江戸の風俗を知るもの極めて少なく、随つて飛んでもない、手違ひを生じて、裁判沙汰とまでなつた事もあつた。偶ま来客があつても、言葉の通ぜぬので、可笑しくもあり、又困却したこともあつた。それから婦人達が、市中へ出あるくと、その服装なども、土地の人々とは甚だしく相違するところより、ひどく目に立ち、子供達が珍しがつて、ぞろぞろと追随するありさまなど、さながら、外国人でも外出したやうであつた。

 かいうふことも、山本がのちにローマ字論者になった遠因であらう。
 漢学を修めたにも関はらず、「ローマ字は世界孰れの文字よりも進歩したるもの」と、ローマ字論者になった。虎列拉を例に論じた箇所が良い。

コレラと書くよりは単調無味ならずと免惟せらるゝならんも、虎列拉起り候と聞いて動物園か阿弗利加の森林を連想せしむるやうなことありては、漢字の罪深きこと之にて知りぬべし。余は漢字を蛇蝎視せずして時には面白味を感ずる一人なれども、奈何せん明快なる頭脳を有する今日以後の社会には、多趣なる幻想を起さしむる文字は深く筐底に蔵むべし

 とある。漢字は余計な想像をさせるから不適当だといふ。
 
 キリスト教を信じるやうになったきっかけがいい。

浅草の三筋町に、禊教といふ教会所が設立された。そしてそこでは御修業と称し、多数の男女が教会におこもりといふて、日夜端座して説教を聞くのである。そこに参籠中は、一日三食とも一汁一菜で、極めて質素な生活を営むのだ。其教会の先達は後方に控へて居て、絶えず参籠者の様子を監視し、偶々之はすぐれて熱心なりと見れば、其人は別室に誘はれて、白衣の神官の前に出でゝ、簡単なる入会の儀式が執行さるゝのだ、其うちに一つの誓約がある。之は「異端を信ずる勿れ」といふ事だ、普通別室に招かるゝものは五六日間にしてそこを出てくるが、私は不熱心と見做されたものか、二週間も捉はれて漸く許されてそこを出て来た。私はその異端を信ずる勿れとある、異端とは何の事ですかと訊いたら、それは耶蘇教を指していふのだとの返答であつた。そこで私は再び問ふた。さらばあの駿河台に巍然たる耶蘇教の会堂があり、そしてそこへあまたの男女が出入するやうですが、もしも異端でそんなに悪いものなら、日本の政府が、それを禁制しさうなものでありますが、其辺は如何のものですかと質問したら、そこに居合せた先達が、頻りに私の袂を引き、さやうな事は余り執拗く聞きたゞすものではないと、差し止めて質問打切りをやつて了つた。爾来何んとなく宗教といふものは、変に不可解のものだなと思ひ、他日よき機会もあらば、尚ほ篤とその辺をも研究してみやうと存念した。

 お茶の水ニコライ堂は隆盛だったやうだ。その後に、本多庸一のことを、優秀なのに耶蘇の伝道をしてゐるので「馬鹿な奴」「惜しいものだ」といふのを聞く。そこで本多に会ひ、キリスト教の道につながってゆく。禊教が“異端”を禁じなかったら、山本はキリスト教に興味を持たなかっただらう、不思議なことだ。

 初めて見る語句もでてくるが、推測して読む。シカゴで出てくるのが地獄屋。

驚いたのは、左右ずらりと軒を並べて、地獄屋ばかり、ピヤノを弾いているのもあれば、窓ぎはに立つて鼠泣きして客を呼んでるのもある。一寸ふり返つてその様子を見ると歳の頃十七、八位、色白で、ほんのり頬紅を塗りたてニツコリ笑を見せた。その紳士も私の顔を見て、あれがシカゴの悪魔ですと言はれた。その時思つた。流石文明圏だけあつて、地獄屋にピアノがあるわいと驚いたが、今では東京は勿論、仙台辺でも地獄屋、近時の名ではカフェーとか云ふが、仙台では草もち屋といふて、ピアノの音がきこえるやうになつた。

 地獄屋はシアトル上陸時にも出てくる。

二階の一部に幕が張つてあつて、その幕の間からチヨイチヨイ若い洋装の日本の女が覗くのを見た。その女達は何者だかわからなかつたが、巻煙草をふかして居るのを見れば、何れ碌な者どもではなからうと思つた。後で聞けば、その蕎麦屋の亭主は九州のもので、日本の女を集めて地獄屋を始め、それが為に、何万といふ金をためたといふ事である。

 純喫茶でない方の店なのだらう。地獄屋の文字から想像する。

 子息が晩年の山本の冗談を記録してゐる。「娑婆塞ぎだからといふて自殺する訳にも行かぬ」といふのを読んで可笑しくなった。