古澤幸吉「蘭花凋落 干那開く」

 『古澤幸吉自叙伝 吾家の記録 村上・厚岸・東京・ハルビン』は昨年5月発行の、古澤幸吉(北冥)の自叙伝。中を読むと、三浦梧楼の書生として閔妃事件に立ち会ったとか、二葉亭四迷と露和字書を編纂したとか、話題がだいぶ古い。
 年譜によると古澤は明治5年新潟県生まれ、北海道で屯田兵となった。三浦梧楼、小村寿太郎の書生となった。外務省に入ってチチハルハルビン、チタなどの領事館に勤務した。満鉄に入社、ハルビン日本人会長、哈爾浜日日新聞、ハルビンスコエ・ウレーミヤ両社の社長、大阪毎日新聞通信員、哈爾浜神社氏子総代、世界紅卍会哈爾浜分会顧問などのほか名誉職多数。終戦の混乱の中を引き揚げて昭和26年に亡くなってゐる。
 没後65年を経て刊行されたもので、明治の話も臨場感をもって描かれてゐる。
 記録は精細で情報量が多い。子の世代は亡くなり、注釈は孫が行ってゐる。これも非常に詳しく、最近刊の本も参照し、専門書以上の水準になってゐる。人名索引も詳しい。例へば加納久朗が立項されてゐるがこれは幸吉の文章には出てこない。息子が通ってゐた成城学園の紛糾事件の資料として、写真版の印刷物が載ってゐる。そこに加納の名前がある。それで索引にも採用されてゐる。
 最後の書簡類篇は写真と翻刻が両方載ってゐて、土肥原賢二の筆跡は崩しがあまりないことなどがわかる。家族に宛てた手紙を見るとあじあ号の便箋を使ってゐて、便箋の上部に車体があしらはれてゐるデザインも眺められる。
 三浦梧楼には海苔の焼き方を注意されたりしてゐる。その一方、小村寿太郎の人柄には好感を持ってゐたやうで家族との付き合ひもある。
 身内の伝手もなく出世を遂げられた理由の一つには、語学の才と修文の功があったこと、支那趣味で交友をひろげたことがうかがはれる。交遊録では稲葉君山、安藤麟三らが出てくる。
 神奈川県に東郷平八郎の祖先発祥之地の碑が建つことを新聞で知った古澤は、東郷元帥にその不可を急報する。「発祥」とは天子様のために使ふ語で、臣下が使ふのは不適当なのだといふ。結果的に碑文は「発跡」に改められた。
 終戦を知った際は茫然としたのちにすぐ熱気を蘇らせる。

尚武を誇りとした國民は崇文の國民でもあるべき筈だ。明治維新は前者の功業で完成した、昭和維新は後者に依て打開されねばならぬ。

 ソ連軍が侵攻し、ハルビンの日満国旗は赤旗にうって変った。漢詩の一部にかうある。

満城の風物 蛮夷に化す
蘭花凋落 干那開く
干那燃ゆるが如し赤色旗

 蘭花満州の皇帝旗に描かれた。
 干那はカンナ、夏に真っ赤な花を咲かせる。ソ連赤旗がカンナのやうだと詩にしたのだ。












・『人間ポンプ ひょいとでてきたカワリダマ 園部志郎の俺の場合は内臓だから』(筏丸けいこ著、フラミンゴ社発行)読む。人間ポンプで人々を驚かせた園部志郎の聞き書き。前後の見返しの、昭和30年代の園部を描いた漫画がよい。「蔵出し記事録」は当時の週刊誌の誌面をそのまま再録したもので、文章も読める。軍隊に入隊したときも役に立った。「この特技を諜報活動につかえるんじゃないかって、これは冗談でしたけどね」。命の危険を抱へながら芸に精進しつつも飄々としてゐて、不思議な魅力がある。造本では紙質がしっとりしてゐて、たまに2枚一緒にめくってしまふ。表紙は園部が開いてゐた料理屋のマッチ箱から。裏表紙にマッチの実物が載ってゐる。