藤沢親雄兄弟と旅行した福冨忠男

『あぶく』は地質学者、福冨忠男の随筆集。昭和41年8月、国土社発行。装丁・カットは斎藤愛子。序文は徳川義親。

福冨さんとの交遊は世俗に堕ちず、学究的でもなく、時に近く、時に遠く、飄々乎として風船玉の如きものか。正に この あぶくの著者先生こそ我が古き友、親しき友。

 創作はなくすべて実体験。地質や鉱物に詳しくなくても面白い。徳川のことは「旧尾張藩主〝荒木熊太郎〟―庶民的なお殿様」で取り上げてゐる。虎狩りに行ったマレーの言葉で侯爵のことをアレーキといふので荒木、北海道で熊を捕ってゐたので熊太郎として、変名にした。宿泊中に偶然侯爵だとわかると、急に宿の態度が変る。当時は侯爵以上の旅行には厳重警戒だったといふ。
 「登山は常に危険がお伴する―生きてる熊と一夜を明かす」は中学生時代の小旅行の思ひ出。すでに鉱物を蒐集し、神田の「金石舎」とかいふ標本店に毎週通ってゐた。現地で採集したくなり、秩父に出かけることにした。同行者は親友の藤沢兄弟。

弟の威雄君は後に八高を経て東大工学部に進み、終始運動部で活躍しただけあって大賛成であった。兄の親雄君は一高から東大法科に入ったクソベン秀才型で、子供時代より運動は苦手故、余り乗り気でなかった。けれど結局渋々ながら同行することになった。

 福富は東京府立四中の一年生、藤沢親雄開成中学校一年でともに14歳、藤沢威雄は富士見小学校高等科一年で12歳。「空腹と疲労はだんだん足の運びを鈍らして来た。親雄君は最も甚だしく、ブツブツ言って私を困らせた」などとある。かはいい。夜遅くに泊まったのが粗末なあばら家で、おばあさんが「ここは日本の一番端だぞえ」といふほどのところ。お爺さんは生きた熊と帰ってくる。強い訛りをおさへて、ゆっくりと話して捕らへかたを教えてくれた。家の周りを狼の大群が取り囲み、吠え声で話し声も聞こえなくなったといふ。
 「非常時の異常心理―北海道駒ケ岳の大噴火」は火山の調査に向かったエピソード。東京日日新聞に「福冨博士山頂で大火傷」「摂氏900度の高熱熔岩を踏んで足の裏に大火傷をした」などと書かれたが、これは「誇大偽事」。火口内で溶岩ができたのが900度で、福冨が踏んだ時は50度くらゐに冷えてゐた。「熱い!」と叫んだだけで火傷などしてゐない。調査を終へ、噴火が終息に向かふと発表した福冨。今度はそれが住民たちに誤って伝へられて大騒動を引き起こす。
 「空前絶後の超特大修学旅行――全国旧高校生の南洋見学」は大正4年7月に出発した南洋旅行。各島民の良い印象、悪い印象を率直に書いてゐる。「世界第一の温泉場――経営絶妙なカールスバッド」は「超デブちゃん」の肥満を治す施設の見聞記。チェコスロバキアにあったもので、具体的に痩せさせ方を書いてゐる。「金鉱狂とダイヤモンド狂――原鉱発見に無我夢中」は鉱脈の発見に人生を賭けた二人の男の物語。鉱物の鑑定もしてゐた福冨。金鉱を探してゐる男が、ある決意のもとにやってきて…といふ話。「蒙古王と若い王妃たち――長い箸で大歓待」は満州での接待。福冨は田辺治通の甥で、大歓迎を受けた。「ノモンハン鹵獲戦車――戦争は公々然たる大強盗」はソ連戦車の分析の話。材質や資源について陸軍兵器部で話し、協力した。