松島道人「末世の神主は神を売つて居る」

 西宮・国体科学連盟本部発行の『国体科学』昭和5年3月号は、第五十号記念倍大号。里見岸雄は連盟の統監と称してゐる。
 「一神職より神職界へ」は、里見から寄稿を求められた神職、松島道人による一文。中身も分量もあり、単なる読者投稿と異なる。内容としては、氏子の売名や神社の営利至上主義が槍玉に挙げられてゐる。神社が世道人心を善導するどころか、荒廃させてゐるといふ。

堂々たる官幣大社が、厄除出世開運などゝ御祈祷をやつたり、宝市神事、災難除、有気無気祭、低級なる信仰の群衆心理を当てこんでの神商ひ、俗に云ふ十日戎なんかときたら心ある物は先づ避けて通るであらう、神楽奉納のお方へ福袋及金色小判、大神楽(五十銭以上)御納の御方へは大判の御守を授与す、福当り大俵等々と、餅花当て物ヅラリと打ち並べた大俵数十、其内二三は籤に入れて悉くは内部の世話方に割当てたとのこと

 金儲けの祭事ばかりし、籤引きでも籤は内部の世話人たちで不正に操作されてゐる。他にも天神で鷽替へ神事があるが、1000のうち1つに純金製の鷽を入れて射幸心を煽ってゐる。「押すな押すなの喧嘩雑踏実に戦争の様だ」。
 また「自分の言ひたいことが言ってある」と、出典不明ながら古雑誌の一部を1頁近く引用してゐる。これも辛辣。

彼等(=芸娼妓)の所得は道徳的に当然不正な所得である、不正な所得を捧げて神仏の前に寄進すると云ふことが既に矛盾である、然も無名匿名でやるのなら黙過すべきであるが、大ビラに名乗られては堪るものではい、神社にした所が寺にした所が余り虫が好過ぎるではないか、淫売で得た金を献上し喜捨して御利益があり、功徳になると云ふなら、淫売して金を得るものに神罰や仏罰あるべきではないか、強盗しても慈善するなら信心に叶つたものだと云ふわけだ

 鳥居や灯篭や玉垣は、奸商や醜業婦の売名広告ばかりなので、すべて禁止すべきだといふ。社殿の建築修築の寄付者も最高金額者は大きく、さうでないものは小さく小さく書かれる。これも金に媚びる神主や虚栄心を挑発する坊主らのものでしかなく、廃止すべきだ。
 そこで著者は広告や寄付者の立札を廃止し社殿を清浄にすること、俗悪なる境内露店商人の全廃、御真影奉安所や講堂、図書縦覧所の建設など人心の益になることをすべきだと訴へる。
 理想的過ぎる嫌ひもないではないが、当時から境内の様子に不満を抱いてゐた意見もあったことがわかる。
 「末世の神主は神を売つて居る」「皆神を以て自己の御都合上の道具に使つて居る」といふ批判も、戦後に始まったことではない。

 誌上の蓑田批判、蜷川新による不敬論への反論、出版事情などの文章も面白い。続く。

 
























































・笹塚の声優神社、御神体は分かるが御祭神と大祭日が不明。