木村毅は金魚を食べたか

 『読書展望』(読書展望社)昭和23年8月号は「新涼随筆号」。神戸・西村旅館主で文化サロン、へちま倶楽部を開いた西村貫一の協力で、関西の学者らが執筆してゐる。
 山田孝雄「神宮文庫にある上代文学」は偽史批判。神宮にある神代文字といふのも、明治以降のものといふ。長田富作「兼文の偽板」も明治の偽作家、西村兼文の話題。坂井萃渓「芭蕉と蕪村は河豚を喰つたか」も表題通りの随筆。一体に趣味的な読み物が多い。
 巻頭社説は匿名のXYZ氏による「岩波的文化の阿片性と九十九里のいわし的国民性」。岩波的文化を批判したもの。京都大文学部の男子学生が女子学生を殺した事件があり、犯人の男が哲学的に粉飾した供述が取り上げられてゐる。

 これを読んで私が思うのは、日本は、胃の腑に合わない哲学の貪食によつて、知識的消化不良をおこしていると云うことである。岩波的文化の風靡によつて、中毒を起していると云うことである。わが国をこの敗戦の悲境に落し入れたものは、東條軍閥の横暴の前に、この阿片で、健全性が失われていたからだ。

 殺人事件も無謀な戦争も、岩波的文化に責任があるといふ。もっとも岩波的なものと岩波書店とは別だとことはってゐる。またそのあとには、岩波には多くの用紙が割り当てられたと指摘する。
 これには当時の出版業界事情も関係してゐる。同誌「出版界近時短評」によれば、当時、日本出版協会と対立してゐた自由出版協会の会長が木村毅から交代した。この自由は今のリベラルではなく、マルクス主義からの自由、反共の謂。月刊『自由』、自由主義史観に同じい。『読書展望』編集後記にもその旨記してゐる。公職追放が解除されたばかりの赤尾好夫はその庇護者、戦争責任を追及した岩波側は対立者として描かれてゐる。
 同誌の随筆に松井佳一「金魚今昔譚」がある。その文中、木村毅が西村旅館でした話として、木村が姉の婚礼で金魚を食べたことが紹介されてゐる。
 しかし姉に確かめると、そんなことはなかったといふ。確かに金魚だったが姉の婚礼のときではなかったのか、それとも金魚ではなく似た魚だったのか。はたまた木村の作り話だったのか。
 他の随筆で、木村が共産党は好きだが共産主義は嫌ひだと言ってゐた。いやその逆だったか。 



まんがタウンの裏鎌倉図書館のカ—ド。金鵄みたいだ。