みたままつりの露店が中止と発表されたが、さういふ話は昔からあった。
『尾津随筆 沙婆の風』は昭和23年12月、喜久商事出版部発行。表記は「娑婆」ではなく「沙婆」。新宿を地盤にして露天商を仕切ってゐた尾津喜之助の随筆。
自序がフルってゐる。
私が書物を出すなぞ柄にないやうに思つたが、新聞は瞬間的であり、書籍は永久生命があるから、一つ自分の書いた物を後世に伝へようなんて誇大妄想に囚はれた訳ではなく、数月後には一貫目いくらの紙屑になることを、百も承知、二百も合点なれば、今更処女のように、顔赤らめて、はにかむ必要もあるまいと、そこで原稿の皺を伸し「沙婆の風」と名づけたのがこの書籍である。
文がひねくれてゐるのは含羞か天邪鬼か逆説か。ともかく実際に出版してゐるのだから、文面通り紙屑と思ってゐたとは受け止められないものがある。
この中に「吃驚した靖国神社」がある。尾津はある日「靖国神社後援会」の関係者を名乗る山村慎造の訪問を受けた。神社の国防館(今の靖国会館)を賃貸に出して経済的苦境を救はうといふ話で、ついては出資金や事業面で協力してほしいといふ。
ところが翌日山村と神社に行ってみると、後援会の会長といふのも居ないし、神社側も全く知らないことで、詐欺だと分かった。
権宮司の話によると、特に戦後は慎重になり、遺族の信仰団体も後援会の結成も許可してゐない。「絶対排撃しなければならない」と強調してゐる。
尾津が山村の口車に乗りかかってしまった理由として、過去の新聞報道がある。
「…大分前の新聞でしたが、九段靖国神社の歓楽街、商店街の建設計画が、でかでかと出ており、但し在来の露天商人は断然オミツトするなぞと云ふ大見得を切つた施設当局者談が乗つてゐた」
露店を排除するといふ記事を読んでゐたので、尾津は靖国神社の動向に関心を持ってゐた。そこに山村が訪ねてきたので、つい話を聞いてしまった。
尾津の靖国神社構想も披露されてゐて、それによれば靖国神社から軍事色を一掃し、人類の文化に貢献した人々を祭神とする。神社の奥には、青少年のための文化歓楽街を作る。その手始めに文化貿易博覧会を催す。仲間内の「覧会屋」に声をかければ、応募者が殺到するといふ。
昔ながらの露天商ではなく、覧会屋の形式で出店する。これは現代の趨勢に似てゐるが、尾津は此の頃から考へてゐたことになる。