河野一郎に挑戦した倉地武雄

 『河野に挑戦・一年半』(言論時代社、昭和39年11月)は倉地武雄の著。倉地は元朝日新聞記者で山形支局、政治記者、従軍記者の経験がある。神奈川在住で、河野一郎の地元。河野も朝日新聞にゐたので先輩後輩にあたる。
月刊雑誌『言論時代』のち旬刊新聞『マスコミ時代』主宰。本書は書名にある通り、業界紙の立場から河野を批判した様子がつづられてゐる。業界紙紙面の様子、他の業界紙の動向が分かる。
 河野による那須高原の土地の放火、乗っ取り、各種の利権を詳しく糾弾してゐるが、特にその土地が那須御料林だったことを問題視してゐる。

天皇が最大のお慰めの一つとしておられる植物研究、最も愛された御用邸付近の林の中の天然記念物が油をかけて焼き払われ、根絶やしされてしまったこのことは、河野が本当に保守党の政治家としての観念を持っているかどうかを疑わしめる[。]毎夏、那須高原にご避暑になる度に皇后とともに散策された林はなく、そこにこよなき愛着をもっておられた植物が焼き払われているさまをごらんになって、天皇は泣き出されんばかりのお気色であったといい、瓜生宮内庁長官もお慰めする言葉もなかったという。河野よ、この天皇のご心痛を思ってみるがいい。

 これらの記事は、はじめはやはり業界新聞だった「日刊開発新聞」に掲載された。社長は田中忠義で、倉地は主幹として迎へられ、社長名義で執筆した。この問題は一般紙には全く載らなかったが、大勢新聞と帝都日日新聞は取り上げた。
 しかしその後、児玉誉士夫らの介入で、田中社長は河野追及を中止。倉地の続報が載った新聞は印刷後に行方知れずになってしまふ。「これが、こういったトリ屋新聞(ゼニ取り)の運命か―私は呆然とするよりほかはなかった」。
 そこで倉地は休刊してゐた自分の媒体を復刊させ、河野糾弾に邁進する。野村秋介による河野邸焼き討ちが起こると、その供述書全文を載せ、検事から「こんなことをするバカ者は君しかいない」、国会議員からは「火付けの親分」といはれた。
 『マスコミ時代』は紙面と部数を拡大、自ら国会内でも配布した。

睨みつける者、皮肉に苦笑する者、ひそかに激励する共鳴者、そのあらゆる感情の交錯する視線の中を、新聞をまいて歩く私の心は、戦場にある時と同じ気持だった。悲壮な気持だった。

 当時はそんなことも可能だった。他にも将門塚で起きた事故と河野との関係、児玉と住宅公団の問題も取り上げる。
 この倉地の反骨精神は、朝日時代、「新聞は常に野党たれ」と言った緒方竹虎から学んだものだった。倉地曰く

大臣の旅行について歩いて、ご馳走になり、女を抱かされ、新聞社から旅費を取っていながら、汽車賃もホテルの宿泊料も大臣から支払わさせるなどは下の下である。お中元や、お歳暮に、政界実力者や、大臣から何十万円という金を貰っている最近の一部政治記者の堕落した姿、諸君は、この頃世間がなんと批判しているか知っているのか。