千頭光子が好んだ「亀の歳」

 『千頭老刀自追遠録』(称好塾発行、明治44年5月発行)は同年2月12日に88歳で亡くなった千頭光子を偲んだ書。巌谷小波、山田新一郎などゆかりの人々が思ひ出を寄せてゐる。
 千頭光子は文政7年8月生まれ。高知藩士、山田喜馬太の娘。弟の喜三之進は槍術の道場を継いだが洋学に熱中し閉鎖。長崎土産で人々を驚かした。

就中衆人の前に燐寸を擦りて忽然火を点じたるが如き十数人を珠数繋ぎに連結せしめて電流を通じたるが如き最も郷人の感興を惹きしと云ふ

 千頭清雄と結婚し清臣と久寿猪子を産んだ。久寿猪子の夫が杉浦重剛。よって重剛の義母が光子。息子の清臣は留学後に神経衰弱で長く療養し、重剛も病弱で何年も床に伏した。その間も千頭、杉浦両家をよく守った。千頭光子といふフルネームは知られなくても、御隠居などと呼ばれて非常に親しまれた。山田新一郎曰く、当時の家塾は家庭と峻別するところが多かったが、称好塾は家庭と一体であるのが特長だったといふ。上田駿一郎の回想からは御隠居の人柄がわかる。

それぞれ人の長短を見分けて、それとなく諷喩を加へられる。それが諧謔に託した寸鉄言なので、之に対し開き直つて弁解するといふ訳にも行かず、之を真向から浴せられると、謂はゆる山椒の小粒でピリツと利く。

 書中、何度も「亀の歳」を好んだといふことが出てくる。親族の杉浦五郎の回想。

他郷に客たる青年には、何所かに、「亀の歳」を下さる人の、あるべき必要がある、併し学校では「亀の歳」を呉れるものはない、「亀の歳」に対照すると、学問とか、理論とかいふものは、殆ど三文の価値もなく、御隠居様の人格に比べては、当今の教育の効果の如きは、実に顔色なし位な段ではないのである。深き情けのこもつたアノお杯は、慰藉とか、奨励とか、あらゆる場合に割愛せられた

 ここでは御隠居と「亀の歳」は一体のやうだ。「亀の歳」を分け与へながら青年をなぐさめたり励ましたりした。そんな御隠居の人格は学校教育にはない貴重なものだったといふ。

一体、誰れがアノ「亀の歳」を見出したのか、僕はアレを始めて御隠居様へ奉呈した人に、連中一同から、何か紀念品でも呈上したいと思ふ。

 はじめは「亀の歳」が何なのかわからなかったが、上田駿一郎が次のやうに描いてゐる。

 「亀の歳」といふのは、味淋のきついような酒で、一時は中々愛飲された。塾主などもよく御土産として湯島切通の下から買つて帰られたものである。併し御隠居さんの飲まれるのは、其実一瓶の十分の一位で、其他は塾友の腹へはいつてしまふのである。

 味醂があるのでお屠蘇みたいなものか。一か所だけ「亀の齢」と表記されてゐて、「亀齢」なら今でもある。飲めば長生きできるかな。












・先週日曜の日経に続き、今週のポストも都知事の父を取り上げてゐる。小池勇二郎はスメラ学塾に共鳴し、戦後は楯の会にも関はった由。日経の方は元都知事との因縁話。表記はどちらもスメラ塾。