秋山安三郎「新夕刊は東京で一番悪い新聞」

 『新聞講座 編集編・Ⅱ[東京講座]』は日本新聞協会の発行。昭和24年5月25日発行。定価3円。手元のものにはグラシン紙のやうなのが貼り付けられてゐる。
 序によれば前年の編集編が好評で多数の注文を受けた。「その主な理由は内容が専門的でありながら現実に即しており、程度の高いものでありながらやさしく表現されている」からだった。「机上の空論でも観念の遊戯でもない。まさに新聞人の苦闘と内省の間から滲み出た血の通つた体験の集積である」。それで続編をⅡとして刊行した。
 総論・記者論・文章論・記事論・整理論・写真論の6章で、学者や記者が二段組500ページに亘って新聞をさまざまな角度から論じてゐる。
 座談会も当時の雰囲気が分かる。高橋司三治・毎日東京政治部長によれば、

終戦後の政治記事がとかく時勢におもねるといいますか、終戦後の政治、経済、社会、思想と共に流れてともすれば左に行き過ぎる。昔は右に行き過ぎているというような傾向にありましたが、終戦後の社会情勢を反映しまして左に行き過ぎているというような傾向があるのです。

 と、左寄りだといふ自覚があったやうだ。
 見出しの付け方では、茂木政・毎日東京整理部次長は

東京裁判の見出しは中々面倒ですよ。たとえば、真珠湾攻撃は奇襲にあらずという被告のいい分が一番のヤマだと思つても、それをそのまま見出しにするわけには行きませんからね。

 
 山根嘉郎・毎日東京編集局付は

 東条の口供書から見出しをとつて出した場合には、その反対のキーナン検事がこうこういつたということを書かねば見出しとして不公平であるということを検閲ではいつておりました

と、検閲があったと証言してゐる。

 「警察司法記事の取材と書き方」を講演したのは秋山安三郎。肩書きは新夕刊編集局長。当時、新興の夕刊紙だった新夕刊について語ってゐる。
 秋山ははじめ国民新聞、次に朝日新聞に20年、新聞協会の前身の新聞会記事審査部に4年間務めたベテラン。その秋山は、新夕刊は「東京で発行する新聞の中で、まず形も整つていなければ質もまるつきりなつていない」といふ。

 新夕刊という新聞がどうも新聞らしくない、これをなんとか新聞らしくする方法はないかというような話が、今から五ヶ月程前に私のところにもちこまれた、よしそれじや、おれが乗込んで新聞らしい新聞にしてみようと、そういう臆面もない考えをもつて飛びこんで、今日にいたつているのだけれども、依然として東京で一番悪い新聞ということは残念ながら認めなければならない。

 秋山は徳富蘇峰の「新聞記者は自分で見たもの以外は肯定して報道してはならない。それ以外のものはすべて客観的にこれを取扱うべきだ」といふ言葉を紹介。事件記事では容疑者を犯罪者扱ひしないこと、逮捕されても起訴に至らないことが多いこと、感情を交えずに書くことを念頭に置くべきだと訴へる。

この四十年の間の心願というものは、どうかして新聞からうそをなくしたい、これだけであつた。こういうところに出てきたのも、何かうそをなくするもとになればいいというような考えで出てきたわけなのである。

 さうすると新夕刊の評価が低いのは、嘘が多いといふこともあるのであらうか。新夕刊の後継紙は東京スポーツ