天職のやうに新聞を読まれた昭和天皇

続き。「宮廷記事の書き方」は藤樫準二・毎日社会部顧問と田中徳・共同社会部の対談形式だが、話題は書き方にとどまらず、記者生活の回顧、天皇と新聞など多岐にわたってゐる。
 これによると昭和天皇はよく新聞をお読みになった。「新聞は天皇の天職のように、よく読み、熱必[心]に批判もされていたようで、時折り、『これは誤報ではないか』とお尋ねがあつたこともある由である」。
 誤報の例としては、ストーブの件がある。

寒いときで、天皇陛下は厳寒にもストーブも用いられないという記事がありました。ところが天皇陛下は実際は、その頃は早朝の寒い間だけストーブをたいて、そのほかはやめておられたのですが、その記事が出たために、陛下は「やはり自分はストーブをやめた方がいゝかね」といわれてとうとうその冬はストーブをやめてしまわれた。

 記者たちとの応答では、

 「外電をよく読む、社会、政治の欄もよく読みます。社説や人物評なども見るが、意見は新聞で書くのだから、そして新聞は大きく世論に影響するから報道は迅速に正確に正しく世論を指導してもらいたい」

 と要望された。最初に外電を挙げて居られる。戦争中、大本営発表ばかりで正しい情報が伝へられてゐなかったといふ人もゐるが、実際はアメリカの短波ラジヲをお聞きになってゐて、戦況もお分かりになってゐた。
 決戦体制が進められてゐたとき、宮内省に戦争中止を要望した人物として、鈴木貞一元企画院総裁、有田八郎赤尾敏の3人だけ名前が上がってゐる。赤尾は反共思想から、早く英米との戦争をやめて対ソ戦の備へをしろといふことだったのだらう。 

 新聞には終戦後もご熱心で、

 終戦後、常時輔弼の内大臣が廃されてからの陛下の日常の御勉強は、新聞に重きを置いておられるようである。陛下の一日の日課の中で新聞にさかれる時間はかなり多い模様で、朝御文庫で御朝食の前後に目を通されるだけでは終らず、御政務室に御出勤後も引続き、都下各新聞をはじめ、地方紙、外字紙などにも目を通されるとのことである。

 本や雑誌には仰々しく天覧を謳ふものがあったけれども、新聞は毎日、昭和天皇の天覧に供されてゐた。他の資料で、新聞は切り抜きや墨塗りなどされず、全く民間と同じものをお読みになると書かれてゐた。ただ、インクが御手に付かないやうに、アイロンをかけてゐたといふ。
 カメラマンのためにポーズをお取りになり、御日程を変更されることもあった。

最近写真撮影技術も進んで白昼もフラツシユランプを使用するようになつたが、陛下の側で無気味な爆発音とともに炸裂することは毎回である。ある時はガラスの破片が陛下の顔や頭にぶつかり、錫箔が頭上から降りかかつたこともある。幸いおけがはなかつたが、側近に「ここを見てくれ」と頭を指されたことがあつた。あとで側近に、「あれは何とか爆発しないようにはならないものかね」とお尋ねがあつたとのことであるが、その後も行幸毎に、幾度も爆発している。