夕刊も無かった讀賣新聞

 讀賣新聞が50,000号を迎へたさうなが、回顧の紙面では昔の様子がよくわからなかった。そこで高木健夫『読売新聞・風雲の紳士録』(昭和49年12月、読売新聞社)を読む。高木は「編集手帳」発案者にして初代筆者。帯の惹句に「回想の“名記者”群像」とある通り、戦前戦後の有名無名記者が出てくる。
 新聞記者といへば今では花形の職業だが、高木が国民新聞から移った昭和5年はまだ羽織ゴロから抜け出したばかりの怪しい職業だった。
 しかも国民は天下の五大新聞の一つだったが、読売は三流。国民の千原英文社会部長が

まだ三万か四万の小新聞で、夕刊も出せねぇしみったれた新聞じゃないか。デカ長に毛の生えたみてェな奴が社長でさ。そんなところへ身を落とすテがあるものかよ。

 と引き留めるくらゐだった。社長といふのは正力松太郎。高木の初対面の印象は「なんとグロテスクなものだろう? と思った。デコボコが多くて、まるで巨大なジャガ芋に目鼻をつけたようだ」。
 次長の岡田彦七郎は、初対面のときに、新聞の切り抜きをしてゐた。そこで高木は、読売に調査部や資料部が無いのだと判断する。「この点からみただけでもやっぱり小新聞だわい」。実際は小規模な部署があったやうだが、国民の方が充実してゐて、人物中心のものが五十音順で整理されてゐた。徳川夢声が利用した朝日の切り抜きも人物対象だった。
 
 満洲事変で夕刊を始めるときは、社が潰れるとか夕刊反対の声も上がったが、これで晴れて一人前の新聞となったといふ。
 
 高木はといふと、銀座のキノエネといふカフェによく行った。「エロ専門」「安上がりで、しかも具体的なサービスをする」とある。これは高木だけでなく部長も次長も岡村二一もみな通った。
 社員は金にも困ってゐて、前借り常習記者、給与伝票を改竄して妻に渡す記者がゐた。高木は内職で、時局解説のパンフレットを書いてゐる。一日で60枚といふ急な仕事にも応じてゐる。

電話をおくと、さっそく社の資料室へ行って切り抜きを借り出し、帰りの電車の中でそれを読み、整理をする。人の談話引用のところはアンダー・ラインを引いて、弟か、カミさんに写させれば、何枚かが助かる……という胸算用をして、帰宅するとすぐさま原稿紙に向って徹夜で仕上げる――まさに職人芸である。

 務台光雄も、徳光衣城も、柞木田龍善も出てくる。柞木田は中里介山の弟子。名文家で芥川賞を狙ってゐた。ある日、「チン玉ァぶら下げて、婦人部記者ですなんていう名刺を出せますか」と、辞職しようとする。高木は「婦人部とキン玉は別に関係ないよ」と、思ひとどまらせた。
 この本、なんといふ書名だったかな。