宮崎滔天に会った本荘幽蘭

 『宮崎滔天全集』にはしっかりした人名索引が付いてゐる。本文に加へ解説も採録範囲なので、同時代人でなくても載ってゐる。ところがなぜか年譜は対象から除外されてゐるので、滔天と関係があっても、人名索引からは分からない人もゐる。
 その一例。年譜によると明治42年、滔天は地方に興行に出てゐて、9月30日に名古屋住吉町丸屋に投宿。10月6日、「四日市に移る予定が旅費の工面できず、二六日まで旅宿に籠城」「ときに婦人運動家本城幽蘭(清子)来訪という」とある。
 ちょっと字が違ふし清子といふのが気にかかるが、これはやはり本荘幽蘭ではなからうか。用件は何だったらう、弟子入りか慈善か。6日から26日のことだから、何回か来たのかもしれない。勿論一度きりかもしれない。いづれにせよ、なかなかの奇観であったらう。
 
 報知新聞記者出身で文相などを務めた松村謙三議員の『三代回顧録』(東洋経済新報社、昭和39年9月)の人名索引には幽蘭が載ってゐる。これによると、

大阪の支社で珍しかったことは、“幽蘭女史”という女傑が、よく鬼権と呼ばれた木村権右衛門という高利貸といっしょに訪ねてきたことだ。格別私に用があるというのでないので、支社の連中も弱ったものだ。なにしろ本荘幽蘭といえば、明治末期に知らぬ者がないというほど有名で、怪物視された女性だ。

 云々とある。松村が大阪に赴任したのが明治42年。退社が45年夏なので、その間のこと。木村は今では富豪といふ説明があったりするが、実は高利貸しで、「非人間扱い」されてゐた。二人してその不満を言ってゐたといふ。
 知らぬ者がないほど有名だったといふから、滔天も前から幽蘭を知ってゐたかもしれない。