力なき女なれども‐千家照子『朱櫻』のこと

 千家尊建は旧名を鐵麿といひ、渥美翁や満川亀太郎、西川光二郎、田尻隼人らの聖日本学会に加はり、日本主義運動に携はった。その妹が千家照子で、昭和7年1月に37歳で帰幽した。歌集『朱櫻』は生前の昭和5年に出雲詩社から刊行された。没後の昭和8年にその後の歌や関係者の追慕、日記、随想を集めて、同じ書名で読売新聞社から出版された。巻頭の「朱櫻発刊に就て」では同社婦人部、奥付では同社出版部とあり、手元のものには、その上に出雲大社教の東京分祠に申し込むやうにといふ紙が張ってある。
 出雲詩社版になかった太田水穂、佐々木信綱、与謝野寛・晶子、柴舟尾上八郎、生田蝶介、今井邦子ら歌人の寄稿が加へられ、田尻隼人も10首の歌を寄せてゐる。これは兄、尊建の聖日本学会以来の関係だらうが、「あゝつひに夢なりしかな東海に崇く清けき君を見んこと」と、会ふのは叶はなかったやうだ。
 会って絶賛したのは生田蝶介。

 私はこの日までこれ程の美しい面影を見たことが無かつた。その日まで、その日から今日まで、そして今後も決してこの地上では見ることが出来ないであらうと思はれるところのそれはまことに気高い美しさであつた。その時すぐ、これは地上のものでない。この世のものでない、と思つた。

 兄の尊建は日本主義運動家で、序文にも主張の一端が覗かれる。

 由来、皇国の伝統には二つの流れがあつて、一はマツリゴトの政治伝統であり、他は人生の根底から築き上げた皇道の真理を証明しようとする宗教伝統である。前者が高天ケ原系であり、後者が出雲系である。この二つは実行と思想と一事の表裏をなすものであるが、両々相俟つて初めて日本の人生は完かるべきものである。

 今回のご婚儀、尊建の心に沿ったものがあらうかと思ふ。
 
 照子自身は兄を思ひつつ、病身のもどかしさに苦しんでゐた。

 私は女の日本主義者として真向から叫ぶにはあまりに不適任である。しかし私は日本主義者として、陰の小さき力として、兄上の小さき理解者として生きる事は、私に約束されたもつとも幸福なる役割であらねばならない。

 兄の影響を受けてか、その歌境も、はじめは主に花鳥を詠んだものが、終はりの方では使命感とそれが叶はぬ焦慮を感じさせるものが多くなる。

力なき女なれどもひのもとのこのすめ国の急をうれふる
とつ国のあなどり何ぞひのもとは正しき神の道にたつ国
まさきくばわれもみ国のうれひごと民のひとりと身をさゝげむを
わがいのちかけて悔なき大いなる仕事よわれにあれとぞ思ふ