汝ら互の足を洗へ‐洗足団を組織した林省三

 『荒野の石―美しき真珠を捜す商人物語』(林省三、甲陽書房、昭和39年6月刊)は書名だけではちょっと内容が分からない。著者の林省三は明治19年京都生まれ。救世軍での伝道、朝鮮での融和運動、安眠島での松脂事業に奮戦力闘した人物で、本書には二段組590頁にわたってその時々の様子が描かれてゐる。
 その描き方がこの上なく詳細で、当時の生活や心境をそのまま記録してゐて臨場感がある。
 たとへば軍隊入営中、節約して古本代を捻出する際の記述はかう。

兵営では、日曜休日などで外出の許されたとき、兵営の飯を食べないときは、欠食料が貰える。これが一食分十二銭である。私は知人の家などに行き、御馳走になったときは別として、自分で食事をする場合には、たいてい、三角の赤飯おこわを一個(五銭)をたべて済ますことにしていた。するとここに一回の差金七銭が浮いてくる。私は特別な場合の外は、官給の新しい靴下などは履かないで兵隊達が粗末にし少し破れたからといって、洗濯場に捨てて置いたものなどを拾つてきて洗濯し、修理してこれを履き、官給の新しいものは誰かに買って貰い、これを本代にするのであった。

 救世軍では東京京橋、京都、仙台で連隊長を務めた。伝道は身体を酷使するほど熱心に行った。

伝道者の寝てる間に死んでゆく人々が多数にあるではないか。この人々は一体どうなるのか、キリストを信じて救われていなかったならば、永遠の滅亡にゆくのでないか、これを思えば悠々と伝道者は、眠ってなどいては相ならぬのである。
 噫嘻、どうか自分は睡眠らずに伝道のできるものになりたい。ひょっとしたら、そんな人間に成ることができるかも知れん、と私は、まじめに、真剣に考えていた。

 機関紙「ときのこゑ」の購読を勧誘するさまを歌った軍歌がいい。

新聞召せよとすすむるを
  卑しと人の見るもあれど
読みて救をえしも有り
  ハレルヤ、主、知れり

 しかし次第に、これは伝道ではなく単なる一宗派の宣伝ではないかと疑問を持ち始める。山室軍平に相談すると、山室も似たやうなことを考へないでもないといひ、救世軍から快く送り出してくれた。
 林は朝鮮の亀浦で野石園といふ農園を始めた。農業は素人で、ものの本に「種子を蒔け」とあるので、本当に種子を蒔くだけで、上から土を被せることを知らなかった。「そんなら種子は、まくのではなく、埋めるのだナ」。
 たまたま朝鮮人の病気やけがを家庭薬などで治すことが続くと、なんでも治ると噂になって行列ができるやうになった。この背景には、彼の地には満足な医療設備もなく、医者に行く金もないといふことがあった。
 朝鮮の社会問題を改善しようと林が組織したのが洗足団だった。これは聖書の「汝ら互の足を洗へ……まされりと思ふ者は先づその僕となれ」に基づくもの。足を洗ふのは身分の低い者のする仕事の象徴で、上の者は驕りを捨てようといふやうな趣旨だった。朝鮮人を覚醒させるよりも、日本内地人の反省を促すのが主眼だった。
 特に会員名簿など作らず、趣旨の賛同者を会員とみなした。
 林はその宣言を起草し、新聞社も大きく取り上げた。

 朝鮮人を軽蔑し陵辱し、彼等の弱点に喰い入って搾取し、自己の私腹を肥すが如きことは、実に我が国家将来に禍憂を残すものである。 
 斯くして鮮人は日本を怨み、斯くして両民族間の融和と協力の基礎は動揺と破壊の危険を感ずるに到るのである。
 是に於てか吾人は苟くも、内鮮融和に障害を来すが如き言語態度行動は自らこれを慎み、また弾劾排斥し、赤誠を傾注して、彼等同胞を援け起すために、国民運動の核心とならなければならぬ。

 丸山鶴吉警務局長とも会見し、機密費から500円をもらった。それをすぐに新聞記者たちに公開し、「宣言文のポスターと檄文の印刷費実費なのです」と堂々と明言した。
 朝鮮人労働者が大勢内地に渡航するが、内地は不景気なので迷惑がり、朝鮮総督府が禁止を通達したことがあった。このときは「内鮮人ともに日本国民である。秋毫の差別があってはならない」と反対。斎藤実総督に電車内で詰め寄った。
 野石園には山室軍平相馬愛蔵・黒光、力行会の永田稠、黒龍会員、満州浪人、ジャーナリストらが来るやうになった。同志社の高木庄太郎とクルバンガリエフらからは絵葉書を寄越してきた。
 その後に着手したのが安眠島の開拓で、松脂を採取する事業を行った。船底に松脂を利用するので、軍需景気で注目された。島を買収したのは麻生家で、新社長に就任した麻生太賀吉(元首相の父)が視察に訪れてゐる。
 麻生家の親戚に加納家があり、林は救世軍時代に加納久朗を訪問してゐる。「殿様町長」加納久宜の息子で、のちの千葉県知事。当時横浜正金銀行勤務。夫人を迎へたばかりだった。亀浦での農業でも相談に乗ってもらってゐた。
 もう一人、林と長いつきあひの長い人物が「金塊大尉」こと平佐二郎。続く。