伊藤友治郎「この種のものを名づけて銅臭仏といふのである」

 今日も賑はふ神保町は古書とカレーの街。
 スマトラのカレーのお店は靖国通りにあるのでわかりやすい。
 この店にカレーを教へたのは長野出身の伊藤友治郎。南洋研究家で龍渓書舎から伊藤編の『南洋調査』が復刻されてゐて、略歴もある。これを読むととても怪しい人だ。 
 前科12犯の元新聞記者で、周辺に左右の人物の名前が見られる。本人の思想については、伊藤友治郎述『片倉銅像建立の巻 武徳殿建立に置きかへられた銅臭仏』(昭和16年12月、天道会出版部)から垣間見られる。
 この23頁の冊子では、長野の諏訪大社の外苑に製糸王、片倉兼太郎の銅像を建立しようとしたことを指弾してゐる。 

 官幣大社諏訪神社神苑に武徳殿の建立さるべき筈であつた其の位置に、亡片倉兼太郎の銅像の建立!!
 地から湧いた黄金仏か?
 このことは神の苑の尊厳を犯さないであらうか。卑賤の人の成金の銅像によつて!(略)一代の成金者流の銅像の如きは、われわれはこの種のものを名づけて銅臭仏といふのである。

 銅像は実際は仏像ではないけれども、神苑を汚すので銅臭仏だと表現してゐる。宮司の高階研一や奉賛会も非難し、「銅像を取り払ひ、以てみそぎした上、大社におわびし、また郡下氏子一般はいふまでもなく国民に向つて其の罪を謝すべきである」と、謝罪を要求してゐる。文中には、反功利主義、反ユダヤ思想も見られる。
 片倉は自身の葬儀に仏教色排除を希望したが、単なる虚礼廃止や反骨でなく、敬神排仏の意味も考へられる。 
 なほ伊藤は片倉と交友があり、タイ同行も計画してゐた。片倉に恨みがあるのでなく、銅像にして神苑に建立するのがよくないと言ってゐる。

 さういへばスマトラのカレー屋の林檎はやはり長野産であらうか。



 





















































 ・神保町にある救世軍に一生を捧げた山室軍平。その最初の妻の伝記、『山室機恵子の生涯 宮沢賢治に通底する生き方』(安原みどり著、銀の鈴社、平成27年9月)読了。賢治と山室(旧姓佐藤)機恵子は同郷。兄は第一次大戦で地中海のマルタに行った海軍軍人、佐藤皐蔵。
 機恵子本人は社会事業と子育てで体を壊し、8人目の子を産んだ直後に41歳で亡くなってゐる。軍平はその三ヵ月後には再婚を考へ、一年後に実行、批判が起こってゐる。
 著者の安原も8月末に亡くなった。