『無遠慮のすゝめ』は中村伯三、北郊文化発行、昭和59年2月発行。東京都北区の桐ケ丘団地で発行された『北郊文化』の創刊15周年を記念したもの。書初会や旅行などとともに、古い昭和時代の人物や雑誌の写真が掲載されてゐる。表紙には著者の12歳当時を描いた絵。描いたのは父の中村有楽。
有楽は明治時代、貸本屋から出版事業に乗り出し便利堂・有楽社で成功を収めた。北大路魯山人、内村鑑三、野口雨情ら文化人との交流でも知られる。伯三が「父母を語る」として描いた部分がとても面白い。有楽や中村家の人物、出版活動を振り返る。
有楽は子供たちに、その当時出してゐた雑誌にちなんだ名前をつけた。長男のときは『英文少年世界』だったので英一、長女のときは『手紙雑誌』だったので文子。そして漫画雑誌、『東京パック』を出してゐたときに生まれたのが伯三。ぱくぞうと読む。実はこれは通称で、届け出た本名はパク三とカタカナだった。そのままだと何度も説明を求められるので、普段は通称にしてゐる。それはさうだ。有楽は他にも雑誌を発行してゐた。この調子だと写真雑誌『グラヒック』のときの子供だったらグラ彦、『食道楽』のときだったら食道(たべみち)などとつけかねなかった。
人物評では北沢楽天のことは欠点を隠さず記す。有楽の内村鑑三の『後世への最大遺物』への貢献、預言者宮崎虎之助への後援も紹介されてゐる。
伯三ら三兄弟は、先の戦争で一人も戦争に駆り出されなかった。正五は2つの作戦を遂行した。まづ骨皮作戦で、半年かけて空腹に耐へ、体重を65キロから45キロにした。仮病作戦では図書館で医学書を読み、兵士にとって最も不適格な病気、仮病を看破されにくい病気を調べ上げた。医師の誤診を勝ち取り、母に報告した。「日本一の孝行息子だ」と喜んでくれた。
伯三の行動も大胆不敵だ。プロレタリア運動のため、現在の数億円に当たる額を実家から持ち出し献金した。戦後の文章では共産党員として地鎮祭に疑問を呈し、自身の葬儀には神主坊主牧師などを断固拒絶する。有楽の葬儀も同様だったといふ。
私たちは、父を愛し、敬した血のつながった私たちの手で、そのとむらいの総べてをとりしきり、職業的坊主などの手を借りなかったことを後悔せぬばかりでなく、今も誇りとしている。
次の会話もいい。伯三が久しぶりに有楽と会ったとき、「もう君は、社会主義運動はやらないのか、転向したのか」と聞かれた。伯三は「社会主義は正しいのですが、体も意志も弱いので、今後はその運動はやらないのです」と答へた。
その私の返事をきくや否や、父は、正しいと信じているのなら、自分の信ずる通りに進まなければ駄目ではないか、親や兄弟の事などはどうでもいいのだ、「大義親を滅す」と昔からいわれているではないか、と私を叱りつけるのでした。
社会主義運動から身を引かうとする伯三に、信念に殉じろと叱りつける。親のほうから、大義の前には親などどうでもいいと言ひ放つ。ここでいふ大義は忠孝などでなく社会主義運動のことだ。