溝口駒造「神道は風邪を引き込みはしないだらうか」

 神田古本まつりが3年ぶりに始まる。本来秋のものを春にする。甘酒はないけれど。神保町には以前から出版社も多い。神保町2の4にあったのが新生堂。河本哲夫がキリスト教関係のものを主に出してゐた。

 『宗教思潮』もその一つ。2巻4・5号は昭和11年5月発行。「宗教と現代」を特集。キリスト教だけでなく仏教、神道の文章もある。溝口駒造は「現代神道の宗教面」。単なる神道の紹介ではなく、当時の神道の課題を論じる。「現代日本の教界に於て最も注意さるべき現象は神道が、…宗教への浮揚運動に努力し出した事であらう」と論を始める。神道の持つ様々な面のうち、宗教的側面が注目されるやうになった。大本教や人の道、生長の家など神道系の団体がなぜ人気を集めるのか。仏教やキリスト教ではなく、なぜ神道を標榜したのかなどの問題を提示する。

 例へもわかりやすい。

徳川時代の末期まで神道はまだ法衣を着せられてゐた。ところが明治維新の初に、法衣を剥ぎ棄てゝ、和漢両式混合の儒衣を着せられ、それ以来今日まで其れを着続けて来た。然るに今其れを脱却して、急に一糸も纏はぬ生れながらの素裸になるならば、神道は風邪を引き込みはしないだらうか。

 神道は仏教や儒教の教へを借りて来た。それが急に独り立ちして大丈夫なのか、と親心から心配してゐる。

 今泉源吉は「日本精神と基督教」。平田篤胤以来の、神道と基督教の接近を論じる。明治維新神道が復古されると期待されたが、実はさうではなかった。表面的で、霊的な要素がなかった。「古い神道でもなく、西洋かぶれの基督教でもなく、その大本の神ながらの道を宣揚するものがあつたら」と残念がってゐる。古いといふのは旧式で無価値の、といふ批判の対象。さらにその根本のことを神ながらの道といって区別してゐる。

 二・二六事件を鎮定した某中隊長といふ人の談話も載ってゐる。

「…武力や金力でどうして世界が平和になりませう。皇化が万民に及ぶためには、日本が世界のふるさととならなければならぬと思ひます。皇道を基としながら、自分は旧新約聖書を一生懸命に研究してゐます」

 日本が世界を皇化するときのため、聖書を研究してゐるのだといふ。今泉は天皇と基督の関連を述べてゐる。『みくに』などの自分たちの機関誌ではなく、キリスト教徒向けの雑誌にも掲載されてゐた。

 

・『まんがはじめて物語 14 文字』を読んだ。アニメを切り抜いて吹き出しをつけてゐる。モグタンはゐるがお姉さんはゐない。内容は日本への漢字の伝来と普及。表紙のすぐ裏のかいせつを何度も読み返してしまふ。当時の読者層では神代文字はご存じあるまい。逆に「ひらたあつたねってどんな人かな」「ホントにもじがなかったのかな。しらべてみよう!」などといふ子供を生み出しかねない。

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