丁髷と禊に生きた瀧澤有徳

 『隠士 瀧澤有徳』は緒方弦雄著、先哲顕彰会発行、昭和17年7月印刷発行。長野の上田で幕末から大正を過ごした瀧澤有徳について、略伝、追悼文、著作をまとめたもの。

 瀧澤は弘化4(1848)年3月生まれ、大正10(1921)年7月12日没。息子の瀧澤七郎は衆議院議員も務めた。隠士とあるやうに、市井に隠れて生きた養蚕農家だったが、実は知る人ぞ知る学者だった。最期まで切らなかった丁髷と、毎朝の禊の実践が異彩を放ってゐた。親しくしてゐた林充胤の回顧がわかりやすい。

一生言あげせずで押通された人であった。相当の学識をもちながら、塾舎を設けねば、随て門弟も集めず、全く瑞穂の御民として一切言あげせぬ神随的の人であつた。(略)時流を睥睨する翁の姿態は実に神々しくも又勇ましきものであつた。この姿態こそ翁として一種の言挙と見るべき 

  著者によれば、有徳の生きた時代は「外来思想翻釈の陶酔時代」。

皇道を論ずるものは頑迷固陋の徒の如く、或は右翼危険人物の如く遇せられたこともある位であつたが、其の中にあつて有徳は終始一貫 皇道を唱道し神道を行ひ  皇道の隆昌を祈つた生活をしてゐた。

 学問上の特別の師はなく、父から教えを受けた。著作は神道儒教を組み合わせたやうな内容で、人の道を説いてゐる。 易や治病にも通じ、明治年間に消失した軍艦、畝傍の行方も占ってゐる。

 基督教に対しては、独自の見識を示した。上田にも教会堂が建てられ、帰依する者も出てきた。これを排撃する者も多く、有徳も国を害する面を指摘してゐる。一方博愛など採るべき点は評価し、自身も聖書を読み、子供たちに聖書の講釈もした。

 勤倹や正直を尊び、常に明治天皇御製を口にしてゐた。