『博物館の少女』に出てくる国家神道

 『博物館の少女 怪異研究事始め』富安陽子著、偕成社、令和3年12月発行、を拝読しました。舞台は明治16年の東京。大阪から上京した古物商の娘、花岡イカルが偶然と運命に導かれて上野の博物館で手伝ひをすることになり、台帳と実物を調査。黒手匣がなくなってゐることがわかり、その謎に迫る、といふ筋立てになってゐます。

 電話もスマホもないので、すれ違ひや行き違ひでドラマが生まれ、人との出会ひにつながってゆきます。イカルが単身で東京に来るので、不案内な場所での戸惑ひ、友達を得た喜びなどに感情移入して読み進むことができます。事件の追跡を描くところも、偶然の発見や意外な視点などの見せ方が巧みで、最後まで息もつかせぬ面白さです。

 妖怪や幽霊がばんばん出てくるのではありませんが、謎解きを楽しめる趣向になってゐます。目次も挿し絵もないので、先の展開を予想することはできません。

 ただ4つ折りで両面カラーの一枚紙が封入されてゐて、これで想像を膨らませることができます。用語解説は馬車鉄道、河鍋暁斎寛永寺など。おもな登場人物のイラストも描かれてゐて、イカルは腕まくりをしてやる気に満ちた13歳。織田賢司は織田信長の子孫で実在の人物。博物館勤務。杖を体の前で握り、よく見ると片眉を上げて睨んでゐます。田中芳男は博物館2代目館長で実在の人物。洋服で懐中時計を見てゐます。アキラは織田のもとで働く奉公人。植木屋のやうな袢纏を着てゐます。髪はボサボサ。河鍋トヨはイカルの親戚の15歳。河鍋暁斎の娘。絵筆を口に当てて思案顔です。鍾馗様(本文中では鐘馗様)を描いてるのでせうか。

 登場人物5人中3人が実在の人物となってゐます。

 裏面が「博物館の少女マップ」で、明治16年の上野周辺のイラスト地図。東京の地理に疎くても、これで位置関係がわかります。寛永寺のところは卍マークではなく神社の鳥居になってゐます。 

 新刊紹介などの冊子と違って本の内容と関はる印刷物なので、本と一体にして編集してもよかったかもしれませんが、手間や製作費のこともあるでせう。

 読み進めていくと、中盤の黒手匣の由来についてのところで、国家神道といふ言葉が出てきました。主人公と織田賢司が、国家神道の話をしてゐました。黒手匣ははじめ、宣教使の男が持ってゐたのです。宣教使をキリスト教徒のことと誤解するイカル。それもその筈センケウシといへば宣教師でキリスト教を布教する人のこと。しかしこの場面の宣教使は「国家神道」を広めるため、ごく短期間置かれた役職のことと説明されます。「国家神道?」と、ぽかんとするイカルに、物知りの織田が解説してくれます。

「…危機感をいだいた明治政府は、対抗手段として神道の国教化を推し進めようとしたのだ。神道といっても、お稲荷さんや八幡さんを祀れというのではないぞ。『古事記』や『日本書紀』に登場する、いわゆる皇祖神と呼ばれる神々だけを祀るように指導するのが、宣教使の仕事だったのだ」

 宣教使の活動は無茶な政策だったので、明治初期で廃止された、とも教へてゐます。

 この物語の舞台は明治16年。その時点で、国家神道はかつて失敗した政策として、忘れ去られたものとされてゐます。靖国神社は明治2年創建ですが、日清戦争日露戦争も始まってゐないこの時点では、国家神道の神社ではないやうです。尤も現在に至るまで皇祖神は祀られてゐないのですが。

 それとも一旦忘れられた国家神道がこのあと、いつかの時点で復活する、といふ世界観なのかもしれません。

 なによりも、織田もイカルも、「国家神道」といふ言葉を口にしてゐるのが注目です。国家神道の用例は明治後半にならなければ出てきません。作り話だといってしまへばそれまでですが、明治16年時点での用例としては不思議です。

 国家神道まぼろしといふのはこんなところにも現れるのかと思ったことでした。