のんびりした新民印書館で働いた山中林之助

 『異端者の手記 激動の六十年を生きて』は、大阪の同刊行会から昭和59年11月に発行された。山中林之助の手記をまとめたもので、年譜もついてゐる。月刊『通俗衛生』、月刊『教育時報』でそれぞれ編集長。『教育タイムス』に本書の基になる連載をしてゐた。戦後は日本書籍大阪支社長、万国博ガイドブック作成、大阪府日中友好協会会長代行などとある。
 全5章で、左翼運動に熱心になり検挙されたり、平泉澄にインタビューしたり救ライ運動に携はったりと、興味は尽きないが、やはり書名にもなってゐる「異端者の手記」の章がよい。
 書名と目次からでは分からないが、中身を読んでみると、この章は全て新民印書館で勤務した様子を描いてゐる。社長は曹汝霖、日本側責任者は平凡社下中弥三郎。下中が教科書の冊数について著者の意見を採用し、助ける場面などがある。ほかにも新民印書館の雰囲気、社員の動向、大陸の書店・住民との交流が詳しく書かれてゐる。
 この会社は、「日本内地の印刷資本・出版資本が共同出資で約五百万円、北支の臨時政府が五百万円の出資で作られたいわゆる国策会社の一つ」。著者の山中は「中国侵略の一翼を担ったという自己批判をこめて書いた」といふ。しかし読んでみると、その生活や働きぶりに暗さは感じられない。山中の仕事は、出版物、学用品、制服などの教育用品全般にわたって、正副の責任者として北支を回ること。長期出張では各地の教科書の普及状況などを調査してゐる。
 勤務地の北京には、車もガソリンも、食料や砂糖もふんだんにあった。会社からは通勤トラックが出てゐて、行き帰りの車内では日本各地のお国言葉があちこちで聞こえた。2階の事務所には、日中各50人の職員が事務を執ってゐた。

 内地でセカセカとこまねずみのように一生懸命に走りまわってきたものにとって、会社の空気は至極のんびりしていた。もちろん五百人近い工員が印刷部を主体に働いているのであるが、事務職員の仕事ぶりは繰り返していうがのんびりとしたもので、これを大陸的というのかと思ってあきれて見ていた。

 各地の特務機関を訪問し、教科書の普及状況を調べた。機関員の前歴についても証言してゐる。

山西省特務機関に働いている文教班の人々の前歴調査をしたところ、百名近い人員のうち、八、九十名まではいわゆる「赤」といわれ、内地の治安維持法で追われた人たちであると聞いて、私も気を強くしたことがあった。

 中国人民の抵抗としては、教科書の見出しに「東亜新秩序」のあとに、故意か偶然か「?」がつけられたまま印刷・配布されてしまった事件がある。真相は不明だが、山中は「工作員が二、三人いれば難なくやれる」と睨んでゐる。
 神兵隊の田崎文蔵も出てくる。長らく天津特務機関に勤務し、当時は北京大使館嘱託だった。山中のやり方に反対してゐるらしいと知り、面会に行ってゐる。「ダルマのように短躯で顔中ヒゲかと思うほど密集してはえたヒゲの中から鋭い目を光らせた、一くせも二くせもあるような顔をしていた」。

「あまり勝手なマネをすると君の首がとぶぞ」
とおどすのであった。私はわざととぼけて、首がとぶというのは会社を辞めさせられることかと聞くと、
「ばかをいえ。君の生命がないということだ」と乱暴なことをいう。それで私は大笑いをして、
「そんなことならお安いことです。私のようなものの首が満・北支文化交流の引き出ものになるのなら、いとお安いことです。いつでもお役に立ちます」と、売りことばに買いことばを吐いてしまった。

 ところが何度か会ふうちに親密になり、毎日電話が来て一緒に飲み歩くやうになる。昭和19年、田崎が書いた『神兵隊事件の全貌』(書中では『〜の真相』)を新民印書館から刊行させた。

当時は、活字にうえている人々の多かった時であったから、日本内地から送ってくる本の二倍も三倍もの値段であったが、○○○と伏字の多いこの本を次から次へと重版して、日本側の書店に送ったことを記憶している。

 この本、日本にどれくらゐ残ってゐるものか。いづれにせよ特務機関にはいろいろな人がゐた。