「どこかへ掲げて道連れになつて戴きませう」‐頭山翁の写真と海を渡る下位春吉

 『向上之青年』の昭和2年9月号には、一家で渡伊する下位春吉の様子が詳細に描かれてゐる。時は7月4日、所は横浜埠頭の箱崎丸。同道するのは13歳になる高輪小学校の不二男君、17歳の頌栄高女の桃代嬢、それにふじ子夫人。見送るのは母のふさ子刀自。送別会や港でのものなど写真が数葉載ってゐて、不二男君は制帽にリュックのやうなものを提げてゐる。
 これより先、東京駅には帝国文化協会の上村藤若主幹(詩人の鮎川信夫の父)以下社員52名の他、名士も駆けつけた。名前を拾ふと千葉胤明、柴田善次郎、小川鉄相、副島義一、稲垣乙丙、小笠原長生、中島中将、堀内中将、安藤正純、蒙古王の佐々木安五郎、上塚司、弁護士の角岡知良、舎身居士の田中弘之ら。交友の幅が広くて興深い。前日にラジオ放送、前々日に皇族講話会に召されて、竹田宮邸で皇族方に御前講話を行ったといふのもへえと思ふ。千葉胤明と言ひ、宮中辺との繋がりが気になる。
 小原達明は夫人の看病で来られないが、前掲の写真を用意した。 

あの時の写真(八月号の向上之青年口絵参照)を引のばして、額縁のことまで、日本を代表する木材を用ふること熱帯地を通過しても、狂ひの来ないものなること等、あれこれと、自ら吟味されて、上村主幹に托されてあつた紀念の写真は、数人の若者によつて船室へ運ばれる。
『頭山先生や私は、故国にあつて、国家のため、日伊親善のためのあなたの歴史的の貴い事業を、四六時中、喜んで拝見して居ます。』
 この小原先生の心尽しでがなあらう(ママ)。
 『これはどうも、これは有り難う。何よりの紀念です。
 あちらへ参つたら書斎に掲げませう。が、それは待ち切れない。船の中で、どこかへ掲げて道連れになつて戴きませう。』

 港ではイタリヤ大使館横浜総領事、平間文寿、田中恒夫夫妻ら音楽家、芸術家も来たといふ。この時は永住の覚悟で渡伊し、ただし7、8月は日本に戻る予定だったさうだ。
 青年に向けた文章では、君が代を歌ふだけ、弁当食ふだけの形式的な青年会・処女会・婦人会を批判。「もう諸君が目覚めてもよい時ではないか。/もう諸君が目覚めねばならぬ時ではないか」と奮起を促してゐる。
 日本の青年に対するムッソリーニのメッセージといふのもあって、「伊太利青年の魂が、フアツシヨ主義に依りて、活気づけられつゝある如く、日本の青年男女諸君の胸裡に、建国の精神を活躍せしめ、武士道の精華を発揮せしめよ。日本帝国の光栄ある将来を建設すべき使命は、実に繋りて諸君の双肩にあればなり」と述べてゐる。