志賀直方「僧侶の中には我国体観に徹しないものがあるから困るよ」

 小林順一郎の発行する機関誌『2600』(三六社、昭和12年12月号)に、有馬成甫が「志賀直方氏を悼む」を寄せて居る。
 志賀直方(なほまさ)は志賀直哉の叔父。明治12年5月12日生まれ。小林、井田磐楠らと行動を共にした。
日露戦争で負傷し、右目の視力を失ひ左目の視力が弱くなり、上下の歯を7,8本失った。
それから参禅生活に入った。

 勿論禅道に志されたのは隊付として山形に勤務して居られたときからのことであつた。その頃三浦了覚師に付いて道を聞き深く感動せらるゝ処があり、且つその修養を努められた。同聯隊の佐伯正悌氏等とは勤務上にもまた修養上にも相伴つて琢磨せられた。然し今回は新たなる境遇と新たなる心境とを以て修養の道に入られたのであつた。
 道場としては鎌倉の建長寺を選ばれ、日夕参禅せられらるゝこと実に十有八年遂に大悟底に達せられた。その間京都建仁寺の黙雷和尚にも参して深く信仰せらるゝ処があつた。氏の禅は尋常一様のものではなかつた『禅と言つても我国体を認識し日本精神を鍛錬する一の道に過ぎないのだ』とは氏が嘗て筆者と仏教の本質論を行つたときに言はれた語であつた。また、『僧侶の中には我国体観に徹しないものがあるから困るよ』とも語られたのであつた。(略)
 国体の本義を現実するに非ざれば真の禅覚と言ふことは出来ないとは禅師が常に周囲に言はるゝ語であると聞く。
 志賀氏の禅定も全く是に外ならなかつた。

 臨終に際しては、道友の山中雪庭を導師とした。
 志賀が学習院を追放させられた経緯については、井田磐楠も談話を残して居る。「自分(井田男)は終始志賀と級友及び竹馬の友として親愛の情を捧げて居つたと共にその人物の点に畏友として絶大の尊敬を持つて居つた」

 或る土曜日のこと、午後から学級では乗馬練習として遠乗をする予定であつた。然るに志賀氏はこのことを忘れたと見えて独り平常服の儘登校した。そうすると皆他の者は乗馬ズボンに長靴と云ふ姿で居つたのであるから志賀は子供心にも、これはしまつた!と思つたのであらう、夫から直ぐに長靴を換へに家に帰らうとした。ところがその時は最早授業時間中となつて居つたので門は閉鎖され、門番はどうしても通さない。そこで志賀はあの気象から何クソと門番を殴り付け塀を越へて宅に帰り乗馬服に着換へてまた登校したのだつた。ところがこのことが問題になつた。教授会では厳格なる校紀を濫るべからず直に厳罰を加へ退校処分に附すべしと云ふ主張と、その行為は罰すべきもその心情は憐むべし厳に戒飭を加ふると共に寛大の処置を採るべしと云ふ説とが対立したのであつた。然るに遂に厳罰論が勝を制して志賀は退校処分に附せられた。

 志賀を呼んだ近衛篤麿院長は、退校処分は校紀でどうにもならないが、将来については力になりたいと申し出た。
将校になりたいといふ志賀の言を聞いて、保証人になることを約束。
 日露戦争に従軍した志賀は、近衛公の手紙を背嚢に入れて居た。

 志賀・小林・井田の交友については『小林順一郎』(「小林順一郎」刊行委員会 代表小林勝之助、昭和39年11月20日発行)に詳しい。大森曹玄は「昨年11月に小林順一郎先生が逝かれると、そのあとを追うかのように今年二月には井田磐楠翁が亡くなられた。両先生は、既に昭和12年に亡くなられた志賀直方さんと士官学校の同期生であった。否同期生という以上に、兄弟も啻ならぬ親しい間柄であった。三人は一人一人を引き離しては到底考えられないほどの仲であった。/志賀先生が大尉、井田先生が少佐、小林先生が大佐でやめられたのだから、三人とも軍人としては功なり名遂けて大成した方だとはいえない。それどころか、肩章の星からいえば、むしろ軍人としては失意の人だったと言った方が当っているかも知れない。それにも拘らずこの三人は、激動時代の日本の舞台裏で縁の下の力持ちを務めた人として、昭和史を語るほどのものには忘れることのできない重要な人物である。/三者それぞれの性格も異なれば、持ち味もちがう。もし小林先生を智の人とすれば、井田先生は情の人、志賀先生は意の人といってよいとおもう」と言ふ。
 井田は出身であるところの、大垣維新史を書いてゐる、とある。この原稿はどうなったであらうか。