井田磐楠から大森曹玄への調査依頼

 『あゝ八月十五日 終戦時の思ひ出 第二集』は昭和39年8月15日刊行。北九州の八幡師友会刊行。第一集の700部が在庫切れになるほど好評だったため、今回は3000部の発行にした。
 直心塾の大森曹玄が「聖戦に降伏なし」と題して、八月十五日のことを記録してゐる。大森は関係者から玉音盤の奪取計画を知らされており、玉音放送は行はれないと信じてゐた。しかし善後策を講じるため、その日は小林順一郎邸に向かった。既に井田磐楠、葛生能久が端座してゐた。小林・井田は紋付袴、葛生は国民服だった。予想に反し終戦玉音放送を聴いて、みな泣いた。大森が「私はこの放送には絶対従ひません。あくまで戦ひます。先生方は?」と問ひかけた。
 ・葛生 「それでは!」と会釈して座を去る
 ・井田 続いて出て行く
 ・小林 大森に何千円かを渡し、「永いことお世話になった、君もたっしゃで暮らしてくれ、おれも身近の整理をして……」のあとはただむせび泣いた。

 小林邸を去った大森を待ち構へる人がゐた。

門前にはとっくに帰られた筈の井田先生が、私を待ってか物蔭に立っておられ、黙って私にステッキを渡された。ズシリと重い。直刀か槍が仕込まれてゐるにちがいない。
「君!大日本史か何かに勅命に背いて忠義をつくした実例があると思うが、至急に調べてくれんかね。」

 
 他人の前では話しにくかったのであらう。井田磐楠の養嗣子は井田正孝で、終戦時の宮城事件に関はってゐた。何か事情を知ってゐて、大森に裏付けを頼んだのかもしれない。大森はその足で大本営に入り、徹底抗戦を主張。一同は呼応し、各地に電話連絡をした。大森は国史を調べるまでもなかった。道鏡事件に前例がある。和気清麻呂孝謙天皇に背いたが、皇祖皇宗の神勅を奉じて皇統を守った。
 具体的には当時の皇太子殿下を皇位につけ、唯一の主戦論者だった竹田宮殿下を摂政にする計画だった。
 結局、次第に承詔必謹論者が数を増し、計画は実行されなかった。大森は京都・天龍寺に入り、終戦詔勅を三年間反芻。第二の人生を始めた。