幡掛正浩「頭山先生の顔はあたかも日本といふいのちの化貌」

 『理想日本』の昭和18年10月号に、幡掛正浩「面(つら)とミコト」が載ってゐる。和辻哲郎の「面とペルソナ」を論難したもので、「この書物の表題に苦笑する」とか「人はあまりの馬鹿馬鹿しさに呆然とするであらう」とか舌鋒鋭いものがある。
 尤も面貌に気迫がないといふのは現代人通有の問題であるといふ。

同様のことは四五年前、上野駅を発つ応召兵を見送る某精神文化研究所の人々の態度にもみたことがある。天に代りて不義を討つと唱ふ彼等の面貌には何等の感激がない。手に持つた小旗が手首だけで振られてゐる。あれでは小器用な御用学は出来ても、雄渾で強靭な学問は生まれぬであらうと帰途友人と語つたことであつた。

 そのあと頭山翁の顔を讃嘆してかく言ふ。

先生の顔にばかりはつくづくと讃嘆した。それは卒然群峯の上に富士を仰ぐ思であり、一切の複雑と多様を内に統ぶる端的なる露堂々である。威あつて猛けからずといふやうな形容ではよそよそしくてとても表現し尽せぬ。よく基督教で化肉といふ言葉を使ふが、頭山先生の顔はあたかも日本といふいのちの化貌‐どうも言葉がそぐはぬが、そのやうな思がする。

 しかし写真帳で見ると顔にも変化が見られ、

 言はば荒魂の面が主として現成してゐる青年期、壮年期の容貌と、和魂、更に直霊が中心の座を占めて発現してゐる最近の容貌とでは更に一段と進境があるやうに感ぜられる。

 かういふ描き分けが出来る人がゐるかしら。

 終はりに、渥美勝之命なら落ち着くが、和辻哲郎之命ではしっくりしないといふ。単に流行の名前が良くないのもあるのだらうけれども、言外に渥美翁の面貌のことを言ってゐるのではないかと思ふ。