少し狂味を帯びる程な熱心家‐西川玉壺と乃木将軍

 西川玉壺は本名西川権。在野の歴史研究家で、高山彦九郎の伝記を書いたり、田尻隼人と交友があったりしたことしか知らなかった。ところが西川の少しまとまった話が載ってゐた。
 書名だけではわからないが、『大遺訓』(猪谷不美男、明治出版社、大正二年)は乃木将軍の言行を記したもの。逸話集で平易な書きぶりなので読みやすい。此の中に西川と乃木将軍との交友が描かれてゐる。元々著者とは同県の出身で、35年の交わりがあった。西川が日露戦争時に調査のために渡露したときも会って話し込んだ。乃木は西川の『日本古典論』を読んで絶賛。『今日此の人の様な日本主義の古典論国体論を唱導する人は稀である、如何にも敬服した』

何の学歴もない一老措大といふてもよい境遇でありながら、東洋史専門の博士達をつかまへて頭から講義をして聞かせ様といふ、意気当るべからざる男ですから、今の世の中には容れられませんで、清貧に甘んじて学問の為に独身生活をなし、必死になつて国体を明かにし、皇威を発揮する為めに一心不乱に古典の研究を唯一の楽みとして居ります、と申し上げたが。これが大将が西川玉壺といふ自分の友人を知るの初めであつた。

『日韓上古史の研究』も著して、偕行社で二千部発行したが、大部な専門書なので広まらなかった。この本もまた乃木が褒めそやした。

参謀本部朝鮮総督府からは、少し過分な参考書買入れ代位しかくれませぬので、篤学な彼はそれを悉く書物に代へて仕舞ひ、今は転地療養費もないといふ始末…如何に窮しても少しも泣き言をいはぬ当世に珍しい精神堅固なる篤学者で、且つ一種独特の史眼を有した人物であります。少し狂味を帯びる程な熱心家でありますが、何時か御会ひ下されたら、本人はさぞ光栄と存ずるでありませう。

そこで明治44年の末に会見が実現した。将軍は西川の意見に賛成し、夫人がつくった煮込み饂飩をすすって別れた。

『如何にも西川といふ人の精神は立派である。是非ともあの人の抱負を著書として世に公にさせたいものである。で、狷介不羈ともいふべき同氏のことであるから、自分等の補助を仰ぐといふことは大に嫌はれるかも知れぬが、毛頭其生活を補助するといふ次第ではない。要するに同氏が参考書を購ふたり調査の為めに旅行したりする費用として、月々何程なり献じたいと思ふから、貴方から一応其次第を同氏の気に障はらぬ様に話してくれ、あの様な篤志な忠実な人物を困窮させて置くといふのは実に勿体無いのみか、今病気で斃れたならば彼の人の抱いて居る大抱負は、世に知られずに消えて仕舞ふのである。実に国家の為め惜しみても余りある次第である。是非同氏に承諾さす様に尽力してくれ』

 西川は大声で、他から聞く人は喧嘩でもして居る様に心配する…と乃木将軍は笑って居る。殉死が迫った日でも病気を心配したり、調査費用を渡したり訪問したりした。