『勅諭を捧体し奉りて』は著者、出版者などの記載なし。本文に「肇国二千六百年の式典」とあるので昭和15年前後、追記に昭和16年6月とあるのでその頃のもの。
国民、特に軍人の心構へを説いたもので、大義に透徹していつでも死地に赴けるよう修養せねばならないといふ。たとへば頭山翁や乃木将軍は敬虔な信仰心を持って、神人合一の絶対境にある。しかし凡人がその境地に至るのは難しい。著者は軍人勅諭を何度も捧読し、捧写すべきだと訴へる。著者は昭和8年7月1日に勅諭100回謹写を発願し、336日かけて完成した。その間は精神啓発の愉楽を覚え、その後も謹写を続けて精神の進歩を楽しんでゐる。
捧読の読み方には注意点がある。大元帥はダイゲンスイではなくタイゲンスイ。何の、はナンノではなくナニノ、など。
捧写の際の注意として、勅諭中の変体仮名もそのまま書き写すべきだといふ。変体仮名は現在では蕎麦屋などごく一部にしか見られない。昭和15年ころでもだいぶ少なかっただらうが、これを普通の平仮名に置き換えてはいけない。「勅諭ノ一字一句ハ神霊ノ結晶タレバナリ」。
即チ、学問低キ当時ノ下士官兵ニ対シテ理解容易ナルベシトノ、大御心ノ発現ナルナリ。 (略)
此ク思考スルトキ、変体仮名ノ一字一句凡テ謹書シ得ザレバ己マザルニ至ルベシ。
捧読中悪魔ノ叫ビ心中ヲ往来スルアラバ、宜シク反省スベシ。宜シク憤ルベシ。若シ夫レ捧写中邪念ノ赴クマヽ字ヲ誤ランカ、宜シク鮮血ヲ以テ之ヲ染メテ反省スベキナリ。
字を写すときに間違へてしまったら、鮮血で反省すべきだ。このやうな捧読、捧写を繰り返せば、無我の絶対境、勅諭の信仰に入ることができるのだといふ。