正午頃に行ってみたまへ‐成田豊四郎のおとわ亭

『実業之日本』大正十年12月号 (24巻23号)を繰ると「学生と軍人に大持ての食堂」(渋谷町人)が載ってゐる(p60〜61)。《客の集まる店巡廻記》といふ連載。此の回はなんと四段の見開きすべて、神保町にあったおとわ亭の紹介。胸が躍りますね。踊りませんか。

 日曜以外の正午頃に行ってみるとその繁盛ぶりがわかるといふ。大テーブル10個の約60の椅子は制服姿の学生に占領され、足の踏み場も無い。行列は15分待ちも珍しくない。
 

店主は成田伍市君と云ふが、此の繁盛する店の創始者は三年ばかり前に物故した彼の父と、今なほ健在で、帳場に采配を振る母とである。父は豊四郎君と呼ばれたが、何でも米国に留学して可なり苦学したことがあるさうである。帰朝後横浜で某移民会社の支配人を勤めて居たが、何等かの事情でそれを止め、心機一転して、その以前から開店してゐた、おとわ亭の株を買ひ受け、一旗挙げたのである。丁度今から五十年ほど以前のことであるさうなが、元来おとわ亭なる名は、村井弦斎氏の食道楽の女主人公の名を取つたもので、店の名にも食道楽を冠し、おとわ揚げ等と云ふ所謂弦斎式の珍料理を提供して居たもので、その当時既に相当名を売ってゐたものである。


 豊四郎君の健気な心懸


 豊四郎君は自分が壮年時代に苦学した経験から、主として学生に安価にして、充分食欲を満足せしむ可き食事を提供したい云ふ希望を有して居た。それで開店当時から大にその点に苦心すると共に、一方西洋料理を日本人の口に適ふやうに調理することも熱心に研究したのであつた、尤も最初には一種の折衷料理たる肉饂飩や、特殊の酢の物等にして居たが、それよりも此の店で云ふ弁当なるものが、暫くの努力で大に有名になつたのである。

 量は普通の店の二倍で、来店者の八から九割は弁当を注文するといふ。『実業之日本』だけあって、経営側の取材が行き届いて居る。家族や従業員らのぶんも含め、一日六斗・一俵半の米を炊く。客に炊きたてを提供するため、一回に四升づつ、一日15回に分けて炊く。「釜底になる部分は皆家人用に宛てる」とあるから、炊きむらがあったりこげたりしたところは客に出さなかったのだらう。心配りがにくい。
 おとわ亭、単に弦斎の人気に当て込んだのではなく、西洋料理の普及とか学生や軍人本位の献立とか、弦斎に近い心組みがあったのではないか。