有松英義内務省警保局長「少しは手落ちもあらうぢゃ無いか」

『日本及日本人』明治42年11月号読む。来島恒喜追悼会の記事が載ってゐる。
でも今日は「文芸取締りの行衛」。捕風捉影楼が、検閲する側を訪問した記事(p95〜98)。
 はじめは警視庁に、亀井警視総監を訪ねた。図書検閲係室に通されたが、そこには役人一人しか居ない。実際は内務省で行はれてゐることを教はり、有松英義内務省警保局長を訪ねた。
 ところが多忙なので二時間待たされた。机上には『サンデー』が置いてあり、開いた雑誌には赤インクで正に検閲中だといふ。有松局長曰く、僅か3,4人の検閲官が毎日何十何百冊を検閲すると言ふ。

 

 実際手が廻らぬので、遂ひ手ぬかりも出る。其処で此の小説は見遁して、彼の小説だけ禁止は酷いと云ふが、之れは全く人が少なくて、手に余る仕事をして居るからだ

 警保局は夫れに検閲計りが仕事ぢや無い、何も彼も一人で遣ると来たら少しは手落ちもあらうぢゃ無いか、何とか云ふ雑誌に、文士の発売禁止論があつた相で、自分も見やうと思ひ、鞄へ入れて四五日持つて歩行いて、忙がしいので遂ひ見ず了ひぢや。当局では新聞ばかりでも数千種来る、夫も市内を始め一版から十何版まで見る、夫れにも専門の係りが二、三人居て、夜中から見て暁方に帰ると云ふ始末だ、之れほどにして検閲してる。夫れも禁止するものは、一時間でも早くしやうとするから益々面倒だ検閲官が見て、如何はしいと思つてゐる処は書記官に見せる、夫れから僕と云ふ順序だが、書記官が居らぬ時は直接僕が見る、僕が見て内務大臣に見せると云ふのだが、大臣も中々忙がしい、夫に大臣は却々文芸の事は大切にしてゐるからね、もう少し考へて見やうとか何とか、そう無茶にはせぬよ。我輩だつて、そう無茶な取締りをするのぢやない、実際止むを得ぬ作物が多いのだからな。


思想上の問題といふよりも、人手と仕事量の関係で検閲が左右されてゐたことがわかる。