「日本帝国を耶蘇基督に捧ぐ」‐憤慨する折口信夫

 『鶴岡』(昭和18年9月15日発行、第十五号)は鶴岡八幡宮社務所発行。約60頁で、月刊とは書いてない。不定期か季刊か。3月1日に社務所で開かれた座談会「思想維新について」が載ってゐる。参加者は國學院大學教授折口信夫日蓮宗善行院住職高佐貫長、みくに会会長弁護士今泉源吉、鶴岡八幡宮宮司座田司氏の4氏。

 

 折口 …私の学生の時分に、救世軍のブース大将が来て、其教派ばかりでなく、基督教一般が歓迎しました。
 今泉 明治四十年頃ですか。
 折口 日本帝国を耶蘇基督に捧ぐ。是、我が党の表記なり。こんな事を旗や幟に書いて持つて行つた。其頃私は、非常に激しい神道の情熱を持つて居りました。恥しながらその後次第に駄目になりましたが、当時神風の宮井鐘次郎翁の説教を始終聴きに行つて居りました。その時には悔しくて、世間では怒つた人もなく、唯笑つてゐる人もあり、まあ其よりも何とも感じぬ人が多かつたのですな。宮井先生の主義は、考へ直さねばならぬ多くの錯誤を含んでゐるのですが、ブース攻撃の為に立つたのは、当時此翁一人だつたのです。若いものが見た所では、なぜ世の人が憤らぬのか、と其を余計に憤慨したのであります。…基督教から見れば、不思議でもない表記ですが、我れ我れには、其を胸寛い様な顔をして見てゐるのがよくなかつたのです。…一つの決戦傾向といふものは、何とかして皆宗教家が結集して、相談するといふ事をやつてもよいと思ひます。これは出来ぬことではないし、文学報国会でも、しきりに共に似た事業に向つて居るのです。


 折口の怒りは自分だけに収まらず、「なぜ君たちは憤慨しないのか」といふ強いものである。それほど激しい危機感を持つてゐた。救世軍といふのも暗示的である。今人こそ神保町でその服装を見ても軍人だとは思はないけれども、軍隊の指揮系統を取り入れたこの団体、折口はその佇まいをどう思つただらうか。今人には日露戦後の気分も、軍隊への距離感もわからない。折口の憤慨もわからない。そして座談会当時、宗教家を結集させようとした気持ちも。
 同席者の今泉は、キリスト由来の日曜日に官庁が休むのを問題視したり、エホバに国を捧げる歌詞がある賛美歌を改める主張をしてゐる。さういふ現役の排耶論を前に「恥しながらその後次第に駄目になりました」と折口が恐縮してゐる。
 恩師の三矢重松は文部省図書局出仕だったが、大臣の欧化主義に反対して辞職した。「国学の理念で争つたといふことは、この辞職事件位が最後であらうと思ひます」。恩師、最後の国学者と慕ったのはその業績と共に、その行蔵もあったのでは。