高佐貫長「活動写真も休養も戦争の一つ」

 折口信夫が昭和18年3月に鶴岡八幡宮で行った座談会。その参加者に日蓮宗善行院住職の高佐貫長といふ人がゐた。

 高佐貫長『国体信仰講座 第一巻』は、高佐が開いてゐた行道塾の講義録をまとめたもの。行道文庫発行、昭和17年12月8日発行。
 
 端々に、なるべく解り易く啓蒙しようといふ意識が見て取れる。「相当難しい問題ばかりのやうですが、それを解りやすく説明するのが此の講義の使命でありますから、新聞の社会面を読むのに不自由のないお方ならば、どなたにも難しいことはない積り」「総振仮名を以て、文字に対する負担を軽からしめるやうにした」「分冊刊行した所以は、読書時間の乏しい人の為に、車中、休憩の機会に親み得るやう、携帯の便を考慮した為である」。

 冒頭で総力戦の解説をするところから、読ませるものがある。

只今私共お互ひは大東亜戦争の中に住んで居るのであります。斯うして講義を致しますのも、大東亜戦争の一方面であります。また日常の生活を見ましても、御飯を頂戴するのも、お仕事をするのも、乃至活動写真を見たり或は休養の為に珍しい所に出掛けて行くといふことも亦戦争の一つなのであります。さう言ふと変に聞えるかも知れませんが、戦争をするには戦争をするだけの力を養はなければなりません。その為に必要な休養も取り、娯楽にも触れると云ふことならば、戦力の涵養ですから、必ずしも無益な娯楽ではなく、また徒に遊んでゐる訳けでもありません。然う云ふ意味に於きまして、ありと凡ゆる者が大東亜戦争の中に住んで居るのであります。

 映画を見るのも、出かけるのも戦争のうち。長期戦になるので英気を養ふのも戦争の一環だといふ。 
 聴衆の心中を先取りして、講義に組み込む工夫もしてゐる。

精神力と申しましても、何くそといつたやうなものは本当の精神力ではない。非常な深い所からガツシリと築き上げられて、何物を以ても破ることの出来ない力が始めて本当の精神力であります。それを堅実なる思想と云つて居ります。

何か知らぬけれども俺は日本人であるから日本の思想を持つて居るのだといふやうな、そんな危なつかしい日本精神では、到底堅実な思想と言ふ訳けには参らないのであります。

 日本が神国であることから敷衍して、日本の家庭が神の家であることを説く。日本神話や祭祀の重要性を論じ、住職が書いたとは思はれないほどだ。
 政教分離解釈は筧克彦の『大日本帝国憲法の根本義』に依って、詳しく紹介してゐる。
 
 目次にはないが、終盤40頁ほどは付録の「神の家運動趣旨」。神棚を奉斎する運動だが、やはり先回りをして注意を促す。

如何に神棚を奉斎すると雖も、深く神祭の本旨を体し、神意即平常心の神の仕人たる生活に徹しなかつたならば、家庭祭祀の意義は没却せられて仕舞ふのである。

 神の家運動の主唱者として国体教学会同人が組織され、座田司氏、千家尊宣、雑賀博愛、森清人、伊藤証信、高佐、稲津紀三が名を連ねてゐる。
 座田は鶴岡八幡宮宮司。折口の座談会にも参加してゐた。
 神の家運動については本文でも触れられてゐて、日本の十万の寺のうち、神棚を祀ってゐるのは自分の住職寺ぐらゐではないかといふ。

また国体信仰の唱道者として名の聴えてゐる仏教家は、唯今の処、伊藤証信、稲津紀三、暁烏敏の諸氏と私ぐらゐなものであり、其の内教団人として寺院に住職してゐるのは、真宗の暁烏さんと私だけであります。

 と、暁烏に対する評価も高い。