「日鮮融和の為めなれば」‐頭山翁と川島芳子

 

 今日我国では韓国の人達のことが兎角問題にされているが、頭山翁は古くから日鮮融和を強調され、実行されていた。それは昭和六、七年の頃であつたと記憶する。東京京橋の角に銀座新興株式会社というのがあり、銀座赤玉や、グランド銀座等当時の豪華なカフエーを経営したり、銀座ダンスホールを経営して居つた。
 同社の社長は李起東君(元銀座デパート株式会社取締役会長昭和二十七年八月逝去)で曾ては大正十三年関東大震災の折あの物騒な朝鮮人騒ぎのあつた中を、敢然東京各所の困難な死骸取り片附け作業を見事やつてのけた相愛会々長であり、副会長は衆議院議員朴春琴その人であつた、翁はこれ等の人達の面倒をよく見た。
 その李起東君がはじめて銀座ダンスホールを開場する運びになつたので粛親王の息女、川島浪速氏の養女錦輝将軍、男装の麗人川島芳子も遙々満洲から来て踊るというので、私はその開場祝いに是非頭山先生を御案内して来て呉れと頼まれた。
 頭山翁とダンス・ホール、これは面白い組合せだと私は思つた。
 頭山先生はこれも「日鮮融和の為めなれば」と出席を快諾された。
 さて開場祝の当日、翁はダンス・ホールなるものには初めてヾある、私も無論初めてヾある。
 華やかに繰り展げられた豪華プロ、前後二時間ばかり居られたかと記憶するが、その間翁は踊り場の方は絶対に見られなかつた、お顔を横に何の装飾もない壁の方に向けられたまヽ始めから終りまで過された、真に一ベツ一顧も呉れることなくであつた。
 軈て「サアモウ帰ろうか」と只一言、料理一品、飲み物一と口召上らず、舞台も見ないお客様、それでも「日鮮融和に役立つなれば」と先生はお顔を出されたのであつた。(大北筆一「頭山満翁と朝鮮」)


人物月旦社発行の『人物月旦』昭和27年9月1日号(第26巻第9号)より。頭山秀三氏追悼号で、同氏が輪禍に遭った様子や追憶が綴られてゐる。どこかで覆刻すればいいのにと思ふ。斜め横顔写真が表紙。父よりも、母の峯尾夫人に似てゐたといふ。
 単に出席した・しないでは弁別できない、頭山翁の機微が伝はる。「豪華プロ」は豪華プログラム。この記事の筆者も行ったことがなかったといふダンスホール。一般にはどれだけ悪場所と思はれてゐたのかしら。 *1