藤沢清造の別れ話

 『生きてきた』を一章ずつまとめるとしても全30章…、週刊プレイボーイに、西村賢太氏が藤沢清造資料に2000万円かけたといふ記事があったので、途中をすっとばして今回は第14章。

 山本は東京日日新聞のサービス紙として創刊された婦人毎日新聞に入社。社長は経済雑誌『実業時代』社長の恒任寅雄。編集長は板谷治平(英世)、社会部長吉井哲三、婦人部長山田やす子、論説部長北村兼子(!)、販売部長はのちの経済誌『近代産業』社長立花(旧姓田中)甚太郎。記者は男女半々。のち社会党代議士の本島百合子は色気なし。のちの作家吉尾なつ子こと根本芳子は大いに色気があった。婦人毎日から上海毎日に行った渡辺義雄に首っ丈で、吉尾の名もそこから。中央新聞から来た三井捷平は都新聞新京支局長になって、山田清三郎とソ連に抑留された。
 ここは半年で辞めて、時事新報政治部記者北川長二郎(のちの北川揚村北日本新聞主筆兼常務)創刊の新雑誌『ガイドジャーナル』に入社。アメリカで成功した映画・演劇・旅行の情報誌を真似たもので、タダで帝劇や歌舞伎座で配った。広告で稼ごうとしたが半年で潰れた。衝立一つ隔てた同室の『実業時代』の編集長岡崎公安は銀座八丁目の酒場「太平楽」のマダムの愛人。岡崎経営研究所所長。のち宇治の実家の寺で僧職。

 山本は遠縁に当たる婦人参政協会会長の山根菊子の発行する雑誌『女性の時代』を引き受ける。そこに短歌を投稿してゐた、秋田県横手町の若林町長の従妹、若林とし子と同棲。女給にさせたり妊娠させたり、そのころ流行の掻爬をした。家賃を溜めて大正赤心団に仕込杖で怒鳴り込まれる。


 …もう何がなにやら。

 

玉の井の娼婦上りを妻としていた作家藤沢清造にたのまれて、夫妻の別れ話にまきこまれて行き来したこともあった。その彼とある日売り出し作家井伏鱒二西荻窪に訪ねて一日を過ごした思い出もある。藤沢清造は女房と別れ、その後、陋巷に窮死の文字通り、芝公園内で凍死して果てたが、文学では飯のくえる時代ではなく、生きることは、われわれにとって残酷そのもののじだいであった。