小次郎が居ない理由

寺田小太郎『わが山河』(発行者:寺田小太郎、発行日:平成20年4月12日、非売品、表紙:中路融人)より。昭和2年、東京市淀橋区角筈(現、東京オペラシティ)生まれの造園家の生ひ立ちと随想をまとめた縦長の冊子。43頁。正誤表付き。

数百年前に近江から移住。代々造り酒屋だったが四代前に家産を傾けた。昔は杉並の大宮八幡まで他人の土地を踏まずに行けたとか、井伊家に土地を売ったとかの口碑がある。

父の小一郎は表具師ののち質屋。父と著者は新旧民法の境目の当主で、相続割合で分家筋から非難と怨嗟の声を浴びた。叔父に小三郎、小四郎が居る。自身は小太郎で、小次郎がいない。父に聞くと、身内に天保水滸伝の小金井の小次郎という博徒が居たからといふ。

中学の頃目にした独歩『武蔵野』、蘆花『みゝずのたはごと』の文章と、村松梢風『本朝画人伝』中の菱田春草の図版「落葉」の影響で昭和20年春、東京農業大学(旧制)専門部の緑地土木科(現、造園学科)に進む。

空襲で焼かれた家からほど近い、代々木の原での十四烈士自決の報を聞く。「私も腹を切りたいと友人に漏らした。『よせよ、そんなつまらないこと、…』と真顔で止めてくれたが、私に腹の切れよう道理もなかった」。

母の死をきっかけに生長の家に入信。その講師の田中忠雄から老荘思想に共鳴する。円覚寺管長から、生涯の希望は大正期に焼失した金堂の再建だと聞いてひどく卑小に感じた。

質店を廃業し、大学の恩師中島健主宰の綜合庭園研究室勤務。のち創造園事務所設立。昭和62年、東京オペラシティプロジェクトに賛同しコレクションを始める。

江上波夫柳田国男など日本論・考古学・人類学などの著書に親しむ。マルクス主義皇国史観の裏返しだと見る。ナショナリストを自任するがつくる会には馴染まず。「天皇家騎馬民族扶余の流れで有っても一向に構わない。/それら全てを含めて日本であり、日本なるものであるからである」。