読売に従軍手当を出させた小山義一

『追憶』は亡くなった小山義一のために編まれた文集。昭和27年9月、追憶編集委員会編纂の非売品。表紙の似顔絵は近藤日出造
 年譜などによると、小山は明治41年、茨城県古河市生まれ。叔父は政客の小山久之助。再従兄弟は代議士・旭海運社長の小山亮。
 大正14年やまと新聞入社、昭和4年毎夕新聞整理部。7年読売新聞社会部。「特に事件記者として他を圧す」。同僚に元活弁松井翠声がゐた。20年東亜部長。「終戦時読売新聞の共産主義的偏向により」退社。長野県上田市に移る。26年読売新聞社出版局に入るも翌年病没。
 74頁の薄冊の中に故人への追悼の情が込められてゐる。写真は笑顔のもの、寝てゐるところ、喫茶店の中でのものなど、くだけた表情のが多い。トレードマークは大陸時代に伸ばしたひげで、写真説明に「北京の近衛さん」と自称してゐた、とある。
 御手洗辰雄は毎夕時代を回想。

 地方部長の要求で校正へまわしたが、ここでも相変らずの朝寝坊、とうとう番〔万〕策尽きて解雇を宣告したのであるが、翌日は又平気で出勤して机の前に坐つてゐる。

 御手洗の方が折れて、結局整理部に戻らせた。おほらかな時代と社風を感じさせる。座談会では従軍記者時代を回顧。当時の読売の貧乏ぶりが話題になった。読売にだけなかった従軍手当制度を実現させたのが小山だったといふ。小山はストライキを主張、「ストライキの執行委員長というところだね」と高木健夫が言ってゐる。次も高木。

 このころは、読売の特派員といえば貧乏で、みんな虱や南京虫に食われて困つていた。彼にいわせると、金がないから着換えも買えない。いいところがあっても、そこで泊まれない。ひどいときは蚤取粉を買うことも出来なかつた。そこで気の強いやつが他社へ行つて、バクチをやつちや金を稼いできたという。

 読売の記者はひどく貧乏で、ノミ取粉も買へない。金はバクチで稼いだといふのが社員気質を表してゐる。
 松井政平は小山の寝坊ぶりを証言。

若いころは、稀代の朝寝呆だつたよ。僕もその方ではちよつと有名のようだつたが、朝社へ時間通りに来たことがないんだ。新聞社では前代未聞のタイムレコーダー、そいつを正力社長が備えつけたんだが彼と俺のカードはいつも遅刻なんだ。

 タイムレコーダーを備へつけたのは読売が始まりらしい。