野村秋介も怒った古都税問題

 いち早く白洲次郎について描いた鶴見紘。鶴見が右翼について書いたのが『右の翼西方に翔ぶ 加藤矩敏口伝』(修明学園出版局「右の翼西方に翔ぶ」刊行会、平成2年7月30日)。白洲連載の最終回ごろに昭和天皇のご容態が悪化してゐた。鶴見は女性週刊誌編集者で、当時の皇太子同妃両殿下のアフガニスタン訪問に同行したり、寛仁親王殿下、島津貴子氏たちの記事を書いてゐた。
 
 平成になってから、古都税問題で京都市長に面会を求め、秘書に日本刀を突きつけた加藤矩敏に会った。場所は祇園のスナック。名刺の裏面には民族運動社とある。それ以来聞き取りや手紙をまとめて一書にした。

 三曜会が笹川良一暗殺計画を立てたとき、吉田益三の説得により中止になった。吉田は三曜会員全員に、三越でカレーを馳走した。吉田の葬儀で、加藤は弔辞でそのときのうまさを述べた。

 昭和六十一年の日本青年社新年会で、野村秋介が加藤の席に来て、古都税と京都市と仏教会について抗議した。イスラエルの要人を清水寺に案内したところ、入門拒否されたのだ。野村は「焼きはらってやる」と言って京都市政を非難した。小林楠扶会長が、京都のことは地元に任せた方がいいといって取り成してその場は落着した。加藤の自宅は清水寺と百メートルのところにある。

 加藤と京都市との関係は深く、冗談交じりに名前を駅名に冠しようとか、深夜に訪問して救助を求められたり、祇園に招待されて涙と共に感謝されたりした。公式行事には必ず特賓として遇された。

 それでも昭和六十二年一月二十四日、計画を実行した。