神官が見た熱田神宮の神剣

その頃の私は考古学という学問があることは知りませんでした。初めて知ったのは一九四六年の四月、明治大学に入ってからです。専門部の地理歴史科に進んだのですが、ここに後藤守一という著名な考古学者がおられて、「三種の神器の考古学的検討」という講義を聞いたのです。三種の神器の一つである天叢雲剣は名古屋の熱田神宮に保管されているのですが、江戸末期から明治の初め頃に、熱田神宮の神官たちがタブーを破ってその剣を見たという。すると鉄の剣ならば錆だらけのはずなのに、青黒く鈍く光っていたという記録がある。つまりこれはおそらく銅剣に間違いなく、北部九州を中心とする西日本の銅剣・銅鐸・銅戈文化に関わるものと考えざるをえない。そこで先生は「皇室の三種の神器の一つが西日本の九州の青銅器文化と関わるということになると、日本の天皇家の出自は相当問題だ」ということを講義で言われたんですね。八月一五日以前なら、すぐ神田警察へ引っ張られていたでしょう。

(岩波の『図書』五月号の座談会、石川日出志・大塚初重・吉村武彦『「新しい古代史」を考える--考古学と歴史学の交響』より)

 大塚氏の発言録を読んだが、天叢雲剣が九州の文化圏のものだとわかると、何故皇室の出自が問題になるのかわからない。

 須佐之男神が剣を獲た出雲は銅剣文化圏に含まれてゐる。神武天皇伝説は、九州から東征してゐる。剣が九州文化圏のものなら、これらの伝説を裏付けるものになる。後藤は神田警察へ拘引されるどころか、文部省に歓待されてもいい筈だ。

 巷間、皇室と朝鮮との関係を云為する一群がゐるが、どうもさういふ話ではなささう。戦後まもなくの講義だったことから、戦前戦中の反動で自然に皇室に不利な話だと思ひ込んだのだらうか。

 しかし大塚氏は後段で「考古学というのはよほどしっかり見ないと、思い込みによっていい加減になってしまうところがある」とある。天下の大岩波が校閲を過つ筈もないし、私の読み方が間違ってゐるのだらうか。