だから俺は中立だ‐江木武彦「新夕刊」政治部長

 『夢を喰った男―「話し方教室」創始者江木武彦』読む。1996年、あずさ書店発行。タイトルの通り、話し方教室の創始者に違ひないのだけれど、それまでの経歴も興味深い。
 学生義勇軍時代、「ゴリラの肉体と最高の叡智を持て」と演説し、何人もの記憶に残って居る。風見章から資金を貰ふ際、徳光衣城が頭山翁から『満洲日日新聞』の刊行資金を一万円貰ったが、遊んでしまって87円しか残らなかった逸話を聞かされて居る。
 
 それから。昭和21年1月創刊の新夕刊で政治部長を務めて居た。

 社長は児玉機関(児玉誉士夫氏)最高幹部の高源重吉氏。副社長は橋本八男氏。編集は局長後藤基晴氏。社会部長城尾三郎氏。政治部長は橋本副社長と旧制福岡高校学友の江木武氏で、国家的代表通信社「同盟」政治部の名記者、学生義勇軍推進者であった。わたくしは弱年からご教導をうけていた杉原正巳先生のご推挽で、新夕刊新聞社に入社。希望した、城尾社会部長のもとで創刊へ――。
 杉原先生は大政翼賛会東亜部副部長、雑誌「解剖時代」主宰、日本政治文化研究所理事で、橋本副社長、後藤局長も研究所主力。近衛文麿内閣の重要な政治頭脳であった。
 「新夕刊」は人情家揃い。とりわけ江木政治部長は深く、第一面全部「本社記者加藤美希雄」の署名入り、三笠宮初の会見記をはじめ、高松宮秩父宮特報など〝部〟を越えてのご弼導戴いた。(加藤美希雄「奉壽觴―『新夕刊』江木武政治部長懐慕)

 新夕刊の執筆陣は小林秀雄永井龍男林房雄亀井勝一郎吉田健一横山隆一・泰三兄弟・田河水泡清水崑錚々たるメンバー。玉川一郎は社会部の探訪記者としてダンスホール記事を書いたりして居た。ただ記者は江木部長、武藤輝彦・佐竹一郎・藤田博泰ら数人しか居なかった。p213には、浜松町にあった新夕刊新聞社の社屋が載って居る。堂々としたビルで、玄関口の流線型の車が時代を感じさせる。
 その前の同盟時代には無産政党と右翼政党を担当。社会大衆党を支持していたのであだ名代わりに「おい無産党!」と呼ばれた。一方、橘孝三郎の兄の橘徳二郎時代の愛郷塾が開いた演説会にも参加したことがあり、右の人間としてもブラックリストに載った。「だから俺は中立だ」。
 そもそももっと早く、中学時代にファシズムに魅せられ、四年生の時に「ムッソリーニを見習え」といふ作文を書いた。

 どうも、日本人のものの考え方に、常になんとなく一つの流れに反対するものをよってたかって叩きふせようとする風潮を感じます。「あいつはアカだ」「あいつは共産党だ」などと言ってつかまえる。現在は、「あいつは反動だ」「あいつは右翼だ」と決めつけています。「自衛隊は自衛力としての当然な必要性をもつ」と言うと、反動だとされ好戦主義者のレッテルを貼られてしまう。
 いろいろな経験からものを言っても、画一的に右か左かとなり、自分たち左の敵は全部ファッショだとなってしまう。ファッショのどこが悪く、どことどこが良くて……ということも考えられないのです。イタリーでファシズムが存在した理由、生まれて来た経過とその価値なども論ぜられずに、抹殺しようとしています。自分以外には正しいものがいないとする考え方が、現在の社会に横溢しているのではないでしょうか。このこと自体が、非常に危険だと思うのです。もっと自由に、いろいろな面からものを見たいものです。(p135〜136)

 さういふことを話し合ふ土台として、江木武彦は話し方教室を作った。ファシズムへの無理解が教室誕生の大きな理由であった。


 藤岡氏らにより自由主義史観研究会が結成されたのは遥かあとのこと。