川内康範の日本刀

 前回の続き。「生涯助ッ人」川内康範は、岡村吾一の仲介で小林会長に引き合わされた。当時、第三国人が無法を働いてゐたが、警察は手出しできなかったので、小林らが銀座警察を組織してこれに対した。

 川内は戦中から、中河与一の主宰する『文藝世紀』の編集を手伝ってゐた。同誌には三島、太宰のほか、自身の戯曲「蟹と詩人」も載った。戦後、海外の遺骨引き揚げ運動を行い、マスコミから右翼作家のレッテルを貼られた。当時、日本青年社最高顧問の櫻井義晃廣済堂グループ総帥の右腕、平本一方と親交を深めた。平本は当時、東京日日新聞(毎日新聞)文化部記者。川内はこの縁で同紙に「青と青」を連載した。

 児玉誉士夫とは頭山翁との縁からの旧知で、任侠徒を束ねるよう依頼。その中の結社から日本青年社ができた。小林会長との出会ひとの記念に、川内から日本刀を贈った。

 首相が硫黄島に出向き、遺骨収集に光が当たる時代になった。もう少し長生きしてゐたらと思ふ。