許斐勝彦の失敗談

『無 小林楠扶追悼集』(小林楠扶追悼集刊行委員会、平成3年8月1日刊行)は170頁しかないが、有名人や芸能人との人脈の広さがよくわかる。

 小林は日本青年社会長。北方領土尖閣諸島について池上彰が解説する折柄、戦後右翼にもう少し光が当たってもいい。

 追悼文を寄せてゐるのは身内を除いて24人。櫻井義晃、井関農機株式会社代表取締役社長井関昌孝、松竹株式会社代表取締役社長奥山融、金子金次郎、作家川内康範、全国環境衛生同業組合連合会会長武蔵野興業株式会社取締役社長河野勝雄、東京温泉株式会社代表取締役社長許斐勝彦、財団法人日本ボクシングコミッション アナウンサー酒井忠康、俳優菅原文太、自営業田畑武男、株式会社ダイヤモンド社代表取締役会長坪内嘉雄、自営業中西五郎、民族思想家中村武彦、松竹株式会社代表取締役会長永山武臣、小林会会長代行根津喜久信、プロ野球解説者張本勲、小林会会長福田晴瞭、宮元昭雄、小林会理事長村田勝志、民族革新会議議長山口申、作家山口洋子、株式会社マイン代表取締役社長山本雅裕、ダイレクトメールサービス株式会社専務取締役山本良介、俳優友人代表萬屋錦之介

 記念撮影の写真には衛藤豊久、西山廣喜、登石清、タイのスッサイ将軍、アフガン・ムジャヒディン、田宮二郎鶴田浩二青木功、輪島、王貞治千代の富士、元日本精工会長今里廣記、作家野坂昭如、菊岡久利、沢田二郎ら。

 許斐勝彦の父は許斐氏利。父と小林により人間形成し、父からは男親の真の愛情と人間としての強さを、小林からは人生における我慢の大切さを教わったといふ。

 そんな二人の思ひ出。

ある夜、東京から自動車で鎌倉に向かって走っていた時のことです。当時、会長も私も無免許でしたが、運転をしていた会長が鎌倉も近くなったので私に運転を替ってくれました。
 江ノ島のカーブにさしかかった所で、小雨のためスリップした自動車が、道路の向かい側の竹塀に激突、車は大破し、会長と私は九死に一生を得るという大事故になりました。

 えっと…無免許は危ないですよ。

伊豆の三宅島へ二人で行った時のことです。エサに当時数万円の生きた伊勢エビを買い求め、釣る魚よりもエサの方が高価で、エサの伊勢エビを食べた方が良いという、家族の笑いを背に受けながら出掛けました。

 
 えっと…景気がいいですね。

初体験の私達は、用意した飲み水を瞬く間に飲み干してしまい、正午頃には、南海の孤島の岩礁の上で照りつける陽光を遮るものもなく、身体中の水分は蒸発して干乾になるかと思いました。

 えっと…大変でしたね。

磯釣りに行く時、未明に車で出発しようとしたところ、ホテルの駐車場が濃霧で見通しが利かず、人間用の階段を車で下りるという大失敗というか、離れ業を披露してしまいました。

 えっと…免許は取りましたか。

何故か私の失敗談が多く、会長には随分とご迷惑をかけたなあという思いが、悔恨とともに新たな涙を誘います。そしてその失敗やスリルを共有したことで、会長と肌を触れあったような、強い永遠の絆と、その厳しい中に温情あるお人柄、しみじみと想い起こさせるのです。

 小林会長の人脈をもう少し。巻末年譜によると、結婚の媒酌人は菊岡久利、豊田一夫夫妻。長男を命名したのは村松梢風。二男を命名したのは久保正雄・東日貿易㈱社長。三男を命名したのは児玉誉士夫。長男の媒酌人は櫻井義晃夫妻。