自由党院外団に入った木内豊助

続き。『わが半生 10人集』は靴業界人の半生をつづったもの。靴業界に入る前の経歴にも面白い人がゐる。
 村田金一は明治41年生まれ。「目玉の松ちゃん」こと尾上松之助の後援会、「松栄会」に入会。機関誌月刊『富士』の編集をしてゐた。毎号1000部印刷したといふ。昭和4年ごろはラジオドラマが盛んになり、喫茶店などでの素人による脚本朗読が流行。村田は「桃源座」「錣座」を立ち上げたりとなかなかの趣味人だ。
 木内豊助は明治32年生まれ。関東大震災のときに青年団が組織され、木内は副団長、団長が高知の坂本といふ人だった、とある。

 坂本さんの紹介で、私が政治家の院外団に入ったのは大正末期であるが、そのころ鳩山一郎さんは政友会の東京支部長で、川島正次郎、河野一郎大野伴睦といった人たちも、まだ院外団で幅をきかせていた。私は青年部員になり、やがて遊説部員として、ベテランの浜田国松から演説の仕方や、地方遊説の場合の手ほどきを受けて、「本部特派員」として出かけていったものである。

 当時の自由党の院外団にも高知の板垣退助の息のかかった人がゐたといふ。その後、台風来襲を直感し米相場で一儲け。元手を得て麻布区議選にも当選した。