ようやく龍馬イヤーも終はる。龍馬が人口に膾炙するきっかけは、日露戦争前に龍馬が昭憲様の夢枕に立ったこと…といふこともそれなりに知られるやうになった。だが開戦前夜に明治の人の夢に現れたのは龍馬だけではなかった。

 『私の欽仰する近代人』(山田孝雄、寶文館、昭和29年9月5日発行)の被伝者は狩野芳崖高杉晋作、栗田寛、近衛篤麿、西郷隆盛西村茂樹、馬場辰猪、福羽美静の8人。

 その中に曰く

近衛篤麿公に私が傾倒して居るのは、学問とか教育とかいふ方面からではなく、日本国民としての立場からである。このことは私ばかりではない、恐らく私と同じ時代に生活してきた人は、皆同じやうに考へたと思ふ

国民同盟会を組織し、政府を鞭撻し、また国民の輿論に愬へ、大活動をして居られた当時、殆ど日本人のすべては、少くとも日本人の本心を有つてゐた日本人は、皆近衛公一人を頼りにし、それを中心にして動いて居たのである。而も当時われわれは十分には知らなかつたのであるが、病躯を顧みず奮闘せられたのである

公爵の亡くなられたのは一月の二日であるが、私がそれを聞いたのは三日であつた。そのことを聞いて私は公爵を夢に三晩続けて見た。それは公爵を病院に見舞に行つて居る夢で、咽喉の病気といふことは前から新聞で知つて居つたが、夢の中の公爵もやはり咽喉に繃帯して居られた。私共はそれほど公爵を信頼して居たのである。公の薨去を聞いて本当に、これは大変だと思つた。当時私も気狂ひとまで言はれるほど国家の事を憂へて居つた

兎に角日本国民が遼東還附に依つて得たあの屈辱、これを日露戦争に依つて初めて雪いだわけである。あの十年間、軟弱の政府を鞭撻して日露戦争へまで持つて行つたのは、全く近衛篤麿公の力であつたと思ふ。その当時日本を救ふ者は近衛篤麿公以外になしと確信し、公を夢にまで見、気狂ひと言はれたものであつた

 近衛公は総理重臣主戦論を遺言し、十二月二十八日に危篤になられた。発表では二日薨去とされたが、実際は明治三十七年一月一日のことであった。